近代デザイン史


目次




産業革命とデザイン


デザインとは

「デザイン」という言葉には、次のようなさまざまな意味が含まれます。

  • 設計
  • 立案
  • 企画
  • 考案
  • 計画
  • 図案
  • 下図
  • 構造
  • 配置
  • 意匠
  • 様式


用の美としてのデザインの始まり

  • 美の享受が王侯貴族や教皇など特権階級に限られていた時代、彼らのための美術とデザインを請け負っていたのは、宮廷や教皇庁などに仕える建築家、画家、彫刻家などでした。
  • 近代になり、誰もが金銭的対価と引き換えに美を享受できる時代が到来しました。
  • 18世紀後半にイギリスを中心として始まった産業革命は、技術の進化をもたらし、社会的・経済的格差が拡大した。
  • 市場に低価格で出回った大量の粗悪品を憂い、疑念の声を上げ始めた者たちが、日常の中の美を問う運動をけん引しました。
  • これら「美意識」の高い者の思想が原点となり、ヨーロッパからアメリカへと広がり、現代のデザイン諸相の基礎を形成しました。


第1次産業革命

第1次産業革命は大きく2つの定義に分けられます。

  • 蒸気機関や石炭を動力源とする軽工業中心の発展であり、イギリス(18世紀)での刷新を皮切りに、フランス、ベルギー、オランダなどが追従しました。
  • 時代的には1760年代から1830年代の現象を指し、イギリスはじまる工業製品の公開と競争およびデザイン教育の普及などに争点が置かれました。





デザイン教育


デザイン学校と産業革命

  • 産業革命により、機械化と新しい工業技術の急速な発展が起こった。
  • この発展は伝統的な手仕事職人の技術を軽視し、デザイン水準の低下をもたらした。
  • イギリスは産業革命の発祥地であり、もっとも早く「近代デザイン」の問題が明らかになり、社会問題となった。
  • 第一次産業革命を中心により引き起こされた社会問題からデザイン教育のあり方について事例を確認しながらまとめる。
  • キーワードは、イギリスの建築家オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンと彼の著書『コントラスト』。


産業美術デザインとヘンリー・コール

  • 質の良い教育的絵本の出版
  • クリスマスカードの制作と販売
  • その他工芸品の製作と販売
  • ヘンリー・コールとフェリックス・サマリー(美術商会)


フェリックス・サマリー

  • 幼児向けの絵本やテーブルウェアなどが、ジョセフ・カンダールの店(ボンドストリート)で発売され、批評を呼んだ。1847 - 1851
  • ウェッジウッド、ミントンなど、有力な製造業者が関わった。
  • デザイナーには有名な芸術家たちが関わり、とうき、ガラス製品、金属製品、木製品などが生産され、人気を博した。
    • ジョン・ベル
    • ウィリアム・ダイス
    • ジョン・カルコット・ホースりー
    • ウィリアム・マルディー
    • リチャード・レッドグレーヴ
    • アーネスト・タウンゼント


フェリックス・サマリーとはヘンリー・コールの仮の名

  • フェリックス・サマリー = 文官「ヘンリー・コール」
  • ヘンリー・コール = 「公文書館」の館長補佐官
  • イギリスにおける1通1ペニーの郵便制度の確立者
  • 鉄道施設の宣伝活動に貢献した文官


ヘンリー・コールがフェリックス・サマリー(美術商会)を立ち上げた経緯

  • 二人の娘に質の高い絵本を与えたいと言う純粋な親心
  • 自ら童話を制作し、ウィリアム・マルディーやリチャード・レッドグレーヴなどのが形に挿絵を依頼した。
  • 童話が「フェリックス・サマリー家庭宝典」から刊行され、1834年5月ジョセフ・カンダールの店(ボンドストリート)で販売され評判となった。


ジャーナル・オブ・デザイン

  • 装飾は主役ではなく装飾される対象の功利性に従うべき。
  • 華美に飾ることのみ関心が向いていた当時のデザインの方法論を批判。





万国博覧会とデザイン


万国博覧会構想が実現するまで

  • 「物財の完全な保証」「商業の自由」「安易な運送」(国際法)を背景に商業的産業生産が飛躍的に伸びていた(イギリス)。
  • 「芸術協会」(The Society of Arts:1754年設立)の活動により「産行技術製器展示会(755-17157年)で優れた壁掛け、絨毯、磁器が展示・一般公開された。
  • フランスが「内国産業博覧会」(1793~1806,1819年から5年に1度)開催。
  • アルバート公がイギリス芸術協会の総裁に就任し、疎遠となっていた産業美術奨所活動を活発化させる。


ジョゼフ・パクストン

  • 鉄とガラスを素材とした設計案が提案される。
  • 1850年7月6日付の「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」にジョゼフ・パクストン案の完成図が公表された。
  • 既成事実に押され、建設委員会がジョゼフ・パクストン案を採用
  • 1850年11月2号の「パンチ」誌に「水晶宮(クリスタルパレス)」として掲載された。


万国博覧会以降のデザイン環境の整備

  • 万博の効果
  • その後の影響
  • 浮上した問題点
  • デザイン教育の見直し
  • デザイン学校の本格稼働などについてまとめる


万博事業のための7つの基本方針

  1. 展示品は4つの部門「原材料と農産物」「機械類」「産業製品」「美術品(絵画を除く)」から構成する。
  2. 仮説の展示館を建てる。
  3. ハイド・パークの空き地を利用する
  4. 国際的規模であること。
  5. 出品者奨所のためその業を頭する。
  6. アルバート公を主席とする「公立委員会」により組織化される。
  7. 「王立芸術協会」によって集められる自発的寄付金を財源とする。


キーワード

  • ゴットフリート・ゼンパー
  • デザイン学校
  • ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアム





第1次産業革命が誘引した反動 - イギリスとドイツ


パクス・ブリタニカから改革運動へ

  • ウィクトリア朝はイギリス人の誇る経済的繁栄の絶頂時代
  • 「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」と謳われた時代
  • 技術革新と科学の進歩が経済的格差を助長し失業者を生み出す
  • 社会風潮として「切り裂きジャック」のような連続殺人事件が発生


ウィクトリア朝の特徴

  • 装飾にあふれた日用品に囲まれ、価値あるものと思われる「過度な装飾」


19世紀前半のデザインと産業化の影響

  • 19世紀前半において、手作りで生産された形や模様を機械によって模倣し、「高価に見える」装飾を追加して生産
  • 工業化による結果は、大量に生産されるが「安く」「陳腐で」「悪趣味な」かつ「不便な」製品の増加
  • 「歴史主義」と称されたこの傾向が「ケバケバしく」「偽善的」な形態を生み出し、デザイン思想とは対照的
  • 統一性のない装飾過多の製品が市中に氾濫し、デザインの近代化を推進する改革運動が起こる


イギリスとドイツの影響

  • 世界の製品が一覧できる博覧会と博物館の草創期
  • イギリスで起こった問題がドイツに伝播
  • 問題には「産業の近代化が及ぼした悪しき結果の払拭」と「歴史主義との戦い」が含まれる


ドイツにおけるビーダーマイヤー思想から体裁を保つための張りぼて様式への転換

  • 19世紀前半のドイツでは「ビーダーマイヤー」の考え方が主流で、身近で日常的なものを尊重する文化が根付いていた。
  • ビーダーマイヤーは「愚直な中産階級の人」という意味で、「ビーダーマイヤー様式」は良識的な中流階級が好むスタイルを指す言葉となった。
  • しかし、経済競争により裕福な市民層は過度な装飾と歴史記述的な様式に傾倒し、贅沢な生活や家具を追求。
  • 裕福な市民の住宅は過剰な装飾と異国風の家具で満たされ、この傾向は下層階級にも広がり、統一性のない製品が市場に広まった。


背景

  • ビーダーマイヤー思想はウィーン会議から3月革命までのドイツで広がり、日常的で簡素な生活を重視する風潮が生まれた。
  • しかし、経済競争により裕福な市民は過度な装飾と異国風の様式を好み、これが市場に広まった。





第2次産業革命


第 2 次産業革命とは

  • 石油を内燃機関とし、化学・電気・鉄鋼など主に重工業を中心とした技術革新が進み、イギリス、ドイツ、フランスおよびアメリカが台頭してきた。
  • 時代的には、1865 年から 1900 年までの期間と定義されている。
  • 近代デザインの動向は第 1 次産業革命と第 2 次産業革命という二つの大きな社会変革と深い関係があり、科学技術と共にその役割や姿を変えてきたのである。
  • 本講義では、第2次産業革命とほぼ同時に勃発した経済的危機 “大不況” がヨーロッパ各地を蝕み、さらにはアメリカに伝播した経緯をいくつかの先進国を例にまとめる。





社会背景にみるデザイン改革運動の根源


貧困とデザイン計画

  • デザインは市場経済に従うようになり、近代化が進行し、貧困問題が浮上した。
  • 自由競争に期待された自然淘汰と安定環境の実現は失敗し、経済不況や恐慌が起こり、失業者と貧困層が増加した。
  • 絶望的な貧困層はスラム街を形成し、大都市で食糧から住宅までの改善策が模索された。
  • アメリカではファストフードなどの栄養価の高い低価格な食事が登場。
  • 社会改革の一環としてロシア革命なども起こり、経済格差を解消しようとする試みが行われた。
  • 貧困とスラム街の問題が、経済性を基にしたデザイン計画の概念形成に寄与。
  • 近代デザイン計画の原理は、誰もが公平で便利な生活を享受できる権利を理念化したもので、都市計画、インテリア、日用品などに適用された。


工業技術と鉄道

  • 19世紀の工業技術化は、イギリスで最初に顕著に現れました。
  • 1823年、ジョージ・スティーヴンソンと実業家エドワード・ピーズはニューカッスルに-蒸気機関の製造会社(ロバート・スティーヴンソン・アンド・カンパニー)を設立しました。
  • 1825年9月27日、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通し、世界で初めて蒸気機関車による旅客輸送が実現しました。
  • オイスターマス鉄道では旅客輸送に馬車を使用していたが、ジョージ・スティーヴンソンの蒸気機関車により大量輸送が可能となり、近代化が進展しました。
  • イザムバード・キングダム・ブルーネルは、1837年に世界最大の木造蒸気汽船である「グレート・ウエスタン号」(1319トン)を製造しました。
  • 1845年には大西洋を横断し、ブリストルからニューヨークまでを結ぶ鋼製の蒸気船「グレート・ブリテン号」(3443トン)を製造しました。
  • 1852年には「グレート・イースタン号」(22500トン)を製造しました。
  • 彼はまた、ロイヤルアルバート橋、ウィンザー鉄道橋、メイデンヘッド鉄道橋など多くの橋梁の設計も手がけました。
  • 鉄道においては、彼はグレート・ウエスタン鉄道の技師に任命され、イギリスの旅客鉄道の発展に貢献しました。
  • 当時の工事においては、効率性や労働条件などが計画に取り入れられなかったが、ジョーゼフ・ロックは工事に関する詳細な見積もりを作成しました。
  • 彼は時間的・経済的コストを前提とした工事計画を策定しました。
  • その結果、彼の計画には現代的価値観につながる近代性が導入され、工事の効率が向上しました。


工業デザインと田園都市構想

  • 1860年頃、イギリスの企業家が最初の労働者用住宅を建設。
  • 1898年、イギリス人エベネザー・ハワードは「庭園都市論」を提唱し、『明日-真の改善への平和な道』として発表(1902年には『明日の庭園都市』として出版)。
  • ハワードは都市を組織的に構造化し、コントロールされるべきと考え、都市と農村を結びつけた庭園都市(ガーデン・シティ)の概念を提唱。
  • 彼は低密度の人口による都市のイメージを描きましたが、20世紀の建築家ル・コルビュジェによって高密度の都市のイメージに転換され、近代の都市計画に大きな影響を与えました。
  • ハワードのアイデアはドイツやアメリカにも広がりました。



ドイツ


クルップ

  • クルップ家はエッセン出身で、鉄鋼、大砲、弾薬などの軍事産業で成功し、フリードリヒ・カール・クルップは「大砲王」として知られました。
  • クルップの産業は30年戦争(1618-1648)まで遡り、第二次世界大戦の終結まで、戦艦、Uボート、戦車、榴弾砲、銃など多くの軍事関連商品を生産しました。
  • クルップ商会のクルップ・コロニーは、ドイツ最古の労働者コロニーであり、1860年代後半に建設が始まりました。
  • クルップ社は、労働者向けに現場トレーニング、保険制度、低コスト住宅、病院、レクリエーション施設、公園、学校、浴場、デパートなどを提供し、労働者とその家族の生活向上に貢献しました。
  • 1967年の景気低迷期には経済的危機に直面し、1999年にはティッセンAGと合併してコングロマリットとなりました。
  • フリードリヒ・カール・クルップは1991年に鉄鋼・鉱山会社ハーシュAGを買収し、20世紀初頭にはヨーロッパ最大の企業となりました。





ヘレラウ(ヘルロー)

  • 1909年にヘレラウがドイツで最初の庭園都市として構想された。
  • エベネザー・ハワードと実業家のカール・シュミット・ヘレラウが協力し、数名の建築家が有機的で計画的なコミュニティを作る構想に参加した。
  • リヒャルト・リーマーシュミット、ハインリッヒ・テッセノウ、ヘルマン・ムテジウス、コート・フリック、ゲオルク・メッツェンドルフなどの建築家が関わった。
  • 道路は曲線上に整備され、石づくりが基本で、クリーム色に縁どられた壁や赤いタイルの屋根、緑色の窓などが特徴だった。
  • 街路樹として背の高い針葉樹が植えられ、長方形の広場を中心に町が形成され、穏やかなコテージ様式の建物が採用された。
  • ゴルジパークは複合施設を囲むコミュニティ公園で多機能スペースを持っていた。
  • 芸術教育により新しい人間を育てるという希望が込められ、エミール・ジャック=ダルクローズやメアリー・ウィグマンなども共鳴した。
  • 芸術家や作家が集い芸術家コロニーが生まれ、新たな文化の発信地を目指した。
  • 第一次世界大戦前は進歩的なエリートが集ったが、1933年にナチ政府が設立されて計画は終焉を迎えた。





アメリカ

  • アメリカではフォレスト・ヒルズ(1908 年建設)や、ジャクソン・ハイツなどにハワード影響下の田園都市例がある。


フォレスト・ヒルズ

  • フォレスト・ヒルズはニューヨーク市のクイーンズ区に位置し、周囲にはコロナやレゴパークなどが隣接している住宅地。
  • 1895年に「ホワイトポット」と呼ばれていた地域は、オルムステッド&エリオット商会による公園計画を発表し、1906年にフォレスト・ヒルズと改名。
  • ラッセルセージ基金の創設者が1908年に57ヘクタールの土地を購入し、「フォレスト・ヒルズ・ガーデン」が完成し、多くのチューダー様式の家が建設された。
  • フォレスト・ヒルズ駅は煉瓦を主体にし、時計塔やアーチで装飾され、近隣のフォレスト・ヒルズ・ガーデンと調和したデザインになっている。
  • 鉄道や路面電車がマンハッタンにつながり、開発が進んでいる。





ジャクソン・ハイツ




  • 19世紀末から20世紀初頭に都市計画が始まり、健康的で豊かな生活を提供するための環境整備と家具・日用品の計画が構想された。
  • これらの計画が実現される過程で、近代デザインの基盤が形成されていった。
  • エベネザー・ハワードの庭園都市構想は、ルイス・マンフォードによって「新時代の先駆者」と評価され、飛行機と同様に画期的なものとされた。
  • マンフォードはハワードの構想を「地上に降り立った際の良い住まいの場」と称賛している。




誰もが等しく享受できる理想の近代的デザイン

  • 工業技術の進展により、社会システムは軽工業から重工業への移行を経験し、近代化への積極的な取り組みと拒絶の姿が明確化した。
  • 近代デザインのモットーである「功利性に優れた簡潔な形態」の登場まで、工業化を受け入れる職人と、伝統を守り手仕事を続けようとする美術工芸家気質のデザイナーが存在し、デザインシーンに影響を与えた。
  • 20世紀初頭のデザインシーンにおいて、大量生産を取り入れた安価でシンプルな家具を提供したトーネットが産業革命後のデザイン進展に影響を与えた。
  • ミヒャエル・トーネットは木工職人として独立し、曲木技術で簡素で機能的な椅子を製造。1836年に「ボッパルトチェア」として発表し、大量生産に成功。
  • この成功によりトーネットの製品は重厚な彫刻から解放され、近代的で美的、機能的な製品へと進化。彼はウィーンで家具製造を手掛ける会社を立ち上げた。





近代デザイン誕生にかかわる社会と運動


アーツ・アンド・クラフツ運動前夜

  • イギリスにおいて、建築家のオーガスタス・W・N・ピュージンは、優れたデザインが社会を変える力を信じており、ゴシック様式を基にしたデザインを試みた。
  • 彼の最も有名な作品は、英国国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)の細部設計であり、特にチャールズ・バリーが設計した議事堂のファサードのディテールや小物家具のデザインにまで携わっていた。
  • イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の支持者であるピュージンの建築は、運動に刺激を与えた。
  • しかし、産業的な大量生産に強く反対していたウィリアム・モリスは、「水晶宮」(第1回ロンドン万国博覧会展示館)を機械化の象徴と見なし、ジョン・ラスキンと共にこの建築を嫌っていた。
  • モリスやラスキンらは、社会における「製品美学」の軽視に疑問を抱き、「美」を取り戻す理想的な社会を築くための理念の構築と実践に取り組んだ。



ピュージン ウエストミンスター宮殿委員会室壁紙デザイン
ピュージン ウエストミンスター宮殿木製パネル
ピュージン ウエストミンスター宮殿議事堂のファサード
ピュージン ウエストミンスター宮殿議事堂ランプ




アーツ・アンド・クラフツ運動

  • 産業革命は科学と工業の進歩をもたらし、多くの産業資本家を生み出し、都市生活を実現したが、人口集中、貧富の格差、労働条件の悪化、農村の衰退、職人技の衰退などを引き起こした。
  • アーツ・アンド・クラフツ運動は、大量生産品の劣化、経済的格差の拡大、伝統技術の失われることに対する反対運動として生まれた。
  • この運動は高品質な工芸品を生み出した熟練職人時代への回帰を提唱し、誰もが質の高いデザインを享受できる社会を理想とした。
  • アーツ・アンド・クラフツ運動は思想的指導者や先駆的なデザイナーによって指針が示され、その後ヨーロッパ全土やアメリカに広まった。


ジョン・ラスキン

  • 思想的指導者ラスキンは工業社会が生み出す醜悪な生活環境に抗議し、ゴシックの時代の 工人の伝統をよみがえらせようとした。
  • ラスキンは中世ゴシック時代の建築を理想とし、「労働が喜びであり、労働と芸術が同等であった時代」を求めた。
  • 彼は労働が芸術活動に結びつき、社会貢献に繋がると信じ、機械化によって職工の人間性が失われたと主張した。
  • ラスキンの思想が基盤となったアーツ・アンド・クラフツ運動は中世への回帰から始まり、後にはモダン・デザインの基礎となった。

  • ジョン・ラスキンポートレイト
  • ラスキン『建築の七燈』
  • ラスキン『ヴェニスの石』ケルムスコット・プレス出版


ウイリアム・モリス


  • モリスは機械産業と資本主義社会の発展に疑問を投げかけ、「環境汚染や労働の疎外、低品質の大量生産品」を資本主義の弊害としました。
  • 彼は中世の職人的手仕事を理想とし、自ら企画・デザイン・手仕事にこだわり、原材料にも妥協しない姿勢を示しました。
  • モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動では、「クラフツマンシップ」が重要で、その特徴は分業ではなくひとつの製品を自分自身で完成させることや生産者と使い手の直接的な関係を重視し、地域の特色を持つ手工業が美と調和をもたらすことを強調しました。
  • 彼は機械時代の手工業者を芸術家ではなく普通の労働者と位置付け、「自己の幻想を仕事に打ち込んでそこに歓喜を覚える」と述べました。





モリス・マーシャル・フォークナー商会

  • モリス・マーシャル・フォークナー商会は1861年にモリスによって設立された。
  • 商会は手の込んだ家具、染料で染めた布、彩色されたタイルやステンドグラスなどを製作した。
  • 商会のメンバーにはフィリップ・ウェッブ(建築家)、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(画家・詩人)、フォード・マドックス・ブラウン(画家)、他が含まれていた。
  • 商会は壁面装飾、建築用の装飾彫刻、ステンドグラス、金工、家具、刺繍、押し型模様つき皮革製品など幅広い製品を手がけた。
  • 美術家、デザイナー、建築家の協力により、製品の開発から製造、販売まで一貫して行われた。
  • 商会は財政的な安定が難しくなり、設立時の協力体制が崩れたため、1875年3月31日に解散し、「モリス商会」を設立した。





モリス商会

  • モリス商会はバーン=ジョーンズとウェッブのみが残り、ステンドグラスや家具のデザインを受注した。
  • 商会の工房は1865年からクイーンズ・スクエア26番地にありましたが、1878年にハマースミスのテムズ河畔に移転し、ケルムスコット・ハウスとして知られるようになりました。
  • 1881年、染色に適した軟水があるマートン・アビーに工房を移しました。
  • モリス商会は1940年に自己破産し、サンダーソン・アンド・サン社が運営を引き継ぎました。リバティ社が一部のモリス・デザインを所有し、それ以後モリス・デザインはリバティのもとで続けられました。





モリス商会のデザイン

ステンドグラス

  • モリス商会では、ステンドグラスが主要な製品となった。
  • モリスは色彩計画や植物デザインを担当し、バーン=ジョーンズは人物デザインを手がけた。
  • フィリップ・ウェッブは動物デザインや建築設計を担当した。
  • ステンドグラスは品のある色彩とまとまりのある構成で、当時の他のものとは一線を画していた。



壁紙

  • 壁紙印刷には最初、油性インクや透明水彩絵具を試みたが失敗。
  • 代わりに、水性インクと木版を使用して製作が行われた。
  • モリスは壁紙や刺繍製作を担当し、自然主義的で簡潔なデザインを提案。例えば「格子垣」では花はモリス、鳥はフィリップ・ウェッブが担当した。
  • 1885年に社会主義同盟を結成し、『コモンウィール』の編集長となった。
  • 社会主義活動に時間を割いたため、デザイン作業は次女メイやジョン・ヘンリー・ダールによって行われることが増えた。



テキスタイル(fabric と同じ)

刺繍・織物

  • モリスは中世の織物技術を再現し、手織りの壁掛け作りに取り組んだ。
  • 1876年に手動織機を使用し、中世の刺繍技術を復元し、ジェインとベシィー・バーデンに教えた。
  • 商会は完成品とデザイン提案の提供を行い、1879年には「キャベツとブドウ」という壁掛けを織り上げた。
  • タペストリー機を使用してダールに技術を伝授し、マートン・アビーで大規模なタペストリーを制作した。
  • 大口注文は他社に委託し、小口や芸術性の高いデザインは手動織機で製作され、ショールームに飾られた。
  • 「小鳥」のデザインは織物製作に集中する過程で生み出された。




プリント

  • モリス商会は壁紙製作後、手彩色印刷のプリント生地製作に移行した。
  • 初期のパターンはプレストンのバニスターホールで生産され、後にマートン・アビーにモリス独自のプリント工房を設立した。
  • 19世紀初頭には合成染料が登場し、捺染のプロセスに大きな変化をもたらした。
  • モリスは天然染料を使用し、洗濯や日光に耐えるテキスタイル・プリントを実験し、植物や動物性染料を採用した。




書物の装丁

  • 1891年、モリスはハマスミスにケルムスコット・プレスを設立し、15世紀の活版印刷様式を使用して伝統的な方法で本を生産した。
  • ニコラウス・ジェンソンのトロイタイプとチョーサータイプからインスピレーションを得た活字体や、花の縁飾り、木版の挿絵をデザインした。
  • ケルムスコット・プレスは1898年まで運営され、美しい書物53種、18,000冊以上、69巻を発行し、多くのプライヴェート・プレスに影響を与えた。





モリスの活動がもたらした影響と結果

  • モリスのデザイン思想は20世紀のモダン・デザインに大きな影響を与えた。
  • 彼の作品は高い技術と厳選された素材を必要とし、高価なものとなった。
  • 理想の社会と芸術の調和を求めたが、製品は富裕層にしか手の届かないものとなった。




モリス以外のアーツ・アンド・クラフツのデザイナー

モリスに続く次世代のデザイナーたちは、モリスが取り入れた具象的なモティーフより抽 象的なモティーフを駆使し、デザインを変革させた。


ウォルター・クレイン

リヴァプール生まれ、ランカシャー没。


チャールズ・フランシス・アンズリー・ヴォイジー

ヨークシャー生まれ、ウィンチェス ター没。


アーサー・ラセンビー・リバティ

モリスの美を継承し機械生産を活用したデザイナー。




リバティ商会での事業

  • アーツ・アンド・クラフツの家具はオーク無垢材やマホガニー象嵌を使い、アーチボルド・ノックスらによってデザインされました。
  • ノックスとジェシー・マリオン・キングが装飾品やバックルを手掛け、クリストファー・ドレッサーはクルーサグラスやコルドファンの燭台をデザインしました。
  • ウィリアム・ムーアクロフトやチャールズ・フーバート・ブラナムの磁器は収集家や博物館の間で人気を博しました。





アーツ・アンド・クラフツの拡大

  • アーツ・アンド・クラフツ運動は、英国を起点にして始まり、後にヨーロッパやアメリカに広がった。
  • 北欧や中央ヨーロッパ、一部の地域では独自の美術運動が形成され、アール・ヌーヴォーやユーゲント・シュティル、バウハウスなどが登場した。


グラスゴー派

  • グラスゴーは19世紀末に経済的な活況を迎え、アール・ヌーヴォー運動が建築やデザイン、絵画などで隆盛した都市でした。
  • アーツ・アンド・クラフツ運動は「用と美」の調和を重視し、唯美主義や耽美主義には批判的でした。この思想に基づき、スコットランドのグラスゴーでは「グラスゴー派」と呼ばれる独創的なグループが活動しました。





アーツ・アンド・クラフツ概念の広がり

  • アーツ・アンド・クラフツ運動は装飾美術の発展期であり、社会改革と生活の向上を志向した。
  • モダニズムの前触れとして、歴史主義を拒絶し、手仕事的な芸術を産業デザインに再び取り入れた。
  • 自然由来の有機的な形態とコンセプトを広め、モリスやラスキンによって提唱され、1888年のアーツ&クラフツ展示協会の設立により広く支持された。




アメリカのアーツ・アンド・クラフツ運動

  • アメリカではアーツ・アンド・クラフツ運動からクラフツマン運動やミッション・スタイルへと展開
  • 1880年代から1920年ごろまで一般的だった家具の材料としてナラの木材(オーク)が使われたことから「ゴールデン・オーク」と呼ばれる


ギュスターヴ・スティックリー

ウィスコンシン州、オセオラ生まれ、ニューヨーク州シ ラキュース没。




ギルドの復活~アーツ・アンド・クラフツ運動の公的認知

  • ギルド: 職業別に結成された手工業者の団体・組織
  • 19世紀のアーツ・アンド・クラフツ運動の指導者たちは、中世の職人組合(ギルド)をヒントにして、商業主義や産業主義に反対し、手仕事への回帰を訴える「美術職人ギルド」を1880年代に結成した。




ギルド・オブ・セント・ジョージ

  • ジョン・ラスキンの「ギルド・オブ・セント・ジョージ」は、1870年に設立され、1871年に商会化。
  • ラスキンは「フォルス・クラヴィゲラ」という著作でイギリスの労働者に手紙を書き、社会問題に関心を示した。
  • 産業革命以前の価値観を復活させ、社会的改善の手段を提供する目的で創設された。
  • ラスキンは土地を提供し、「ラスキン・ランド」では持続可能な工芸活動と教育コレクションが行われた。




センチュリー・ギルド・オブ・アーティスツ

  • 1882年に設立された「センチュリー・ギルド・オブ・アーティスツ」は、芸術家職人の集団で、アーサー・ヘイゲイト・マクマードやハーバート・パーシー・ホーン、セルウィン・イメジなどが中心だった。
  • 家具、ステンドグラス、金属細工、装飾画、建築デザインなどを提案し、展覧会で作品を公開。
  • 彼らは統一された方向性を持たなかったが、「センチュリー・ギルド・ホビー・ホース」という季刊誌を通じてアイデアを共有し、『ホビー・ホース』として後に改名された。
  • 彼らの活動は、チャールズ・フランシス・エンズリー・ヴォイジーやチャールズ・レニー・マッキントッシュらに影響を与え、アーツ・アンド・クラフツ展示協会にも影響を及ぼした。

センチュリー・ギルドと省略

  • マクマードは裕福な化学工場の息子として生まれ、ラスキンのエッセイに感銘を受けて建築家としての道を歩み始めた。
  • ウィリアム・モリスの講義を受け、モリスとの出会いが工芸への関心を高め、芸術家や職人を集めた。
  • センチュリー・ギルドの設立に関与し、ギルドの機関誌『センチュリー・ギルド・ホビー・ホース』の発行を行い、デザインに関する意見交換の場を提供した。


アーサー・ヘイゲイト・マクマード

1851-1942

  • マクマードはフェルステッド・スクールで学び、ラスキン美術学校で教育を受けた。
  • 建築家としてスタートし、モリスの講義を受け工芸に興味を持ち、センチュリー・ギルドを設立。
  • 著書の表紙製作でアール・ヌーヴォーの先駆けとなり、センチュリー・ギルドの機関誌を通じてデザインに関する意見交換を推進した。


セルウィン・イメジ]

1849-1930

  • セルウィン・イメジはスレイド美術学校で教鞭をとった。
  • 「センチュリー・ギルド・オブ・アーティスツ」を共同設立し、ワークショップを指導した。
  • ステンドグラスのデザインや『ホビー・ホース』の編集者として活躍した。
  • デザイナーの社会的認知に関するエッセイを通じて、デザインの意義と統一的効果について説いた。


セント・ジョージ・アート・ソサエティ

  • イメジの芸術とデザインに関する意見交換は「セント・ジョージ・アート・ソサエティ」の設立に繋がり、建築家リチャード・ノーマン・ショウの助手や弟子たちが集結する。
  • セント・ジョージ・ソサイエティは、1883年にイギリスの建築家協会や王立アカデミーへの不満から生まれ、「建築、絵画、彫刻、同種の英国職人」を集める新しい組織の設立を模索した。
  • この動きに賛同した「ザ・フィフティーン」は、ルイス・デイ、ウォルター・クレイン、J.D.セディング、アーネスト・ジョージ、バジル・シャンプニーズなどが設立した。


ウィリアム・リチャード・レザビー

1857-1931

  • デヴォン州バーンステープル出身で、ロンドンで活躍した建築デザイナー。
  • リチャード・ノーマン・ショウの事務所でデザイナーとして才能を発揮し、主要建築物の建築細部のデザインを手がけた。
  • アーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴し、古代建築保護協会に参加し、修復活動に関わった。
  • 「アート・ワーカーズ・ギルド」の共同創設者として活動し、美的原則に基づくデザインを提唱。
  • 独立後は芸術と工芸運動に重点を置き、バーミンガムで建物を設計。代表作に《イーグル保険会社のビル》や《エイヴォン・ティレル・ハウス》がある。
  • 王立芸術大学(RCA)でデザインを教える最初の教授となり、中央美術工芸学校の校長を務めた。また、ウエストミンスター寺院の調査員でもあり、建築とデザインの理論および歴史の研究に従事。
  • バウハウス設立に影響を与えたヘルマン・ムテジウスとの関わりでも重要な存在とされる。


エドワード・シュレーダー・プライオアー

1852-1932

  • エドワード・プライオアーは、ウィリアム・モリスやラスキンに影響を受けた建築家であり、ノーマン・ショウの助言者でした。
  • セント・マーガレット教会の建築や設計を担当し、芸術や建築に関する執筆活動も行いました。
  • 『イギリスにおけるゴシック芸術の歴史』は国際的に評価され、後の建築家に影響を与えました。
  • ケンブリッジ大学のスレイド美術教授として建築学部を設立し、セント・ジョージ・ソサイエティを通じて議論を行い、アート・ワーカーズ・ギルドの設立に関わりました。


アーネスト・アルウィン・ニュートン

1856-1922

  • 1873年から1876年までリチャード・ノーマン・ショウの弟子として働き、1880年に独立した。
  • 1884年にアート・ワーカーズ・ギルドの創設に関わり、1900年代初頭は最も多忙な時期だったとされる。
  • 1890年代にはウィリアム・ウィレットの建築家を務め、1918年に王室から建築の金賞を受賞し、1919年にはロイヤル・アカデミーの会員に選ばれ、1920年にCBEに任命された。


マーヴィン・エドモンド・マッカートニー

1853-1932

  • 1873年から1877年までオックスフォードのリンカーン・カレッジで学び、その後リチャード・ノーマン・ショウに関する記事を執筆した。
  • 芸術協会の会員となり、アメリカ建築家協会の名誉会員になった。また、アート・ワーカーズ・ギルドの創設メンバーとして活動した。
  • 1906年から1920年まで建築評論の編集を行い、セント・ポール大聖堂では学部長および支部の調査員を務め、1930年にはナイトの称号を授与された。

ジェラルド・コルコット・ホースリー

1862-1917

  • ジョン・コルコット・ホースリーは、イラストレーターとして知られ、フェリックス・サマリー家庭宝典から発行されたクリスマスカードのイラストを手がけた。
  • リチャード・ノーマン・ショウに作品を送り、助手として働いた期間は1879年から1882年まで。
  • アート・ワーカーズ・ギルドの創設メンバーとなり、1883年に、1884年にはセント・ジョージ・ソサイエティの創設メンバーに加わった。
  • 建築協会の会長を1911年から1913年まで務めた。




ザ・フィフティーン

  • 「ザ・フィフティーン」はアーツ・アンド・クラフツ運動の中心的グループで、商業デザイナーのルイス・フォアマン・デイをリーダーとしました。
  • 1881年の冬からウォルター・クレインらがメンバーの自宅や職場に集まり、デザイン領域について議論を行いました。


ルイス・フォアマン・デイ

1845-1910

  • 20歳の時にガラス工芸の画家やデザイナーの下で働き、後にクレイトン&ベル・ステンドグラスで画業を磨きました。
  • 1870年にロンドンで起業し、ガラス装飾以外にも壁紙、テキスタイル、タイルなど、多岐にわたるデザインを手掛けました。
  • アーツ・アンド・クラフツ展協会のメンバーであり、アート・ワーカーズギルドのメンバーでもありました。
  • ルイス・フォアマン・デイは、1877年以降、デザインとパターン分野で教育者として影響を持ち、王立芸術協会評議会(RSA)委員でもありました。


ウォルター・クレイン

1845-1915

  • ランカシャー、リバヴァプール生まれ、ウエストサセックス、ホーシャム没。
    Ⅲ.【近代デザイン誕生にかかわる社会と運動~イギリスから伝播した運動】で詳述ずみ。




ギルド・アンド・スクール・オブ・ハンディクラフト

ギルド:1888-1907、スクール:1888- 1895

  • 1888年にロンドンで設立された組織で、芸術家や工芸家のコミュニティとして成立しました。
  • チャールズ・ロバート・アシュビーにより運営され、前衛的な工芸工房の一つとして知られました。
  • ラスキン学習会を発展させた組織で、協同組織工芸職人の工房と養成所が統合され、中世の工房を理想としていました。
  • 作品は、鍛金技術を用いた銀製品、鋼鉄作品、シンプルなカラーストーン作品、エナメル製品、手作りの家具など多岐にわたります。
  • メンバーには、フランク・ベインズ、チャールズ・ロバート・アシュビー、フレーデリック・ジェームズ・パートリッジ、エセル・マイレット、フレーデリック・ランズアー・マウール・グリッグズ、ハロルド・ジョン・マッシングハム、アーナンダ・クーマラズワミー(エセル・マイレットの夫)などが含まれていました。


フランク・ベインズ

1877–1933

  • テームズ・ハウス
    • ロンドン・ミルバンクに位置し、元は帝国化学工業(ICI)のオフィスで、後に内部情報サーヴィスの本部として使用された。
    • 1994年から2013年まで内部情報サーヴィスの拠点として機能。
  • 帝国化学館
    • ロンドン・ミルバンクに位置する2級指定建造物。
    • 1927年から1929年にかけて新古典主義様式で帝国化学工業(ICI)の本部として建設。


チャールズ・ロバート・アシュビー

1863-1942

  • アイルワース生まれ、セヴンオークス没。
  • 1863年に実業家のヘンリー・スペンサー・アシュビーとドイツ系ユダヤ人のエリザベス・ジェニー・ラヴィの間に生まれる。
  • ウェリントン大学卒業後、1883年から1886年までケンブリッジのキングス・カレッジで歴史を学び、建築家のジョージ・フレデリック・ボドリーに師事した。
  • 1888年にアシュビーはロンドンに「ギルドおよび手工芸学校」を設立し、学校は1895年まで運営された。
  • 1902年、アシュビーはギルドをロンドンからグロースターシャーの美しいコッツウォルズにあるチッピング・カムデンに移し、1905年まで実験的なコミュニティを形成。
  • 数人の工芸士がこの地に留まり、近代的なクラフツマンシップの伝承に貢献。彼らの作品はパーマネントコレクションに展示されている。
  • チャールズ・ロバート・アシュビーは、建築家としてインテリア全般の設計を行い、1890年代には王立軍事音楽学校のカントリーハウス・ウォドハウスを改装し、ショウ・ヘリアー大佐の要望に応じてビリヤード・ルームと礼拝堂を備えた家に変更。
  • その後、1907年にショウ・ヘリアー大佐からシチリア島タオルミーナにサン・ジョルジョ邸を建設するよう依頼される。
  • 現在、「ホテル・アシュビー」として運営されているサン・ジョルジョ邸は、彼の設計した建築物の中でも特に印象的な作品とされている。


フレーデリック・ジェームズ・パートリッジ

1877 頃-1946

  • フレーデリック・ジェームズ・パートリッジは、北部デヴォンのバーンステープルで生まれた。
  • イギリスの宝石商、銀細工師、およびジュエリー作りの教師として活動した。
  • 彼の作品はアール・ヌーヴォー様式で知られ、彼は「イギリスのルネ・ラリック」と呼ばれた。


エセル・マイレット

1872-1952

  • デヴォン州、バーンステープル生まれ、イーストサセックス州、ディッチング Ditchling 没。
  • 1899年、ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックでピアノ講師の資格を取得。
  • スリランカで芸術品と工芸品の調査を行い、1907年にその成果を発表。
  • ブロードカムデンでチャールズ・ロバート・アシュビーと出会い、独学で職人技を学び始める。
  • 1910年にインドから植物性染料に関する報告書をアシュビーに送付。
  • ストラットフォード・アポン・エイボンの近くに共同住宅とスタジオ「ザ・サッチド・ハウス」を設立。
  • 1916年、ディッチリングのヒラリー・ペプラーを訪れ、共同で仕事を始める。
  • 1917年、ヒラリーの監修で『工芸と服従に関するエッセイ』と『野菜染料に関する書物』第2版を完成させ、出版。


フレーデリック・ランズアー・マウール・グリッグズ

1876-1938

  • ハートフォードシャー 、ヒ ッチン生まれ、グロースターシャー、チッピング・カムデン没。
  • アーツ・アンド・クラフツ運動後期に関わった、イギリスの版画家、イラストレータ。
  • 代表作の一つとして《チチェスター・クロス》(1904)や、《マウルズ農場》(1913)がある。


ハロルド・ジョン・マッシングハム

1888-1952

  • 父がジャーナリストで生まれ、ロンドンで育つ。
  • オックスフォードのウエストミンスター・スクールとクイーンズカレッジで学ぶが、健康上の理由で中退。
  • イギリスの巨石文化のルーツをエジプトに追求し、研究を続ける。
  • 地方主義に関する多くの著作を持ち、同時に詩人でもある。


アーナンダ・クーマラズワミー

エセル・マイレットの最初の夫
1888-1947

  • イギリス領セイロン(現在のスリランカ、コロンボ)生まれ、マサチューセッツで没。
  • 1879年にイギリスに移住し、グロースターシャー州ストラウドのワイクリフカレッジに通う。
  • 1900年、ロンドンのユニヴァーシティカレッジで地質学と植物学の学位を取得。
  • インド文化と芸術の先駆者であり、古代インドの芸術を西洋に紹介する理論を展開。歴史と哲学にも深く関わる。
  • 1902年にエセル・メアリー・パートリッジと結婚し、セイロンへ同行。感情的な対立から1913年に離婚し、妻はイギリスへ戻る。
  • 没する直前はマサチューセッツ州ニーダムで美術館の学芸員を務め、西洋に東洋の芸術を紹介する役割を果たした。




アート・ワーカーズ・ギルド 1884-1934 と「アーツ・アンド・クラフツ展示会協会」発足

ギルド:手工業者たちが職業別に結成していた団体・組織。

  • 「アート・ワーカーズ・ギルド」はノーマン・ショーの事務所の建築家と他の2つのグループから7人が集まり設立。
  • ウイリアム・モリスの思想に共感し、「すべての芸術の統一」をモットーに設立された。
  • 初の会合はアーネスト・ニュートンの部屋で開かれ、最初は男性のみの組織だった。
  • 1907年にメイ・モリスが女性も参加できるギルドを設立し、1960年代に女性が参加できるようになった。
  • 美術・芸術に関する議論や小規模な展覧会を開催しながら組織を拡大していった。
  • メンバー各自が独自のアトリエや工房で仕事を続け、組織全体の結束力が低く、展覧会でのプロモーションを行う必要があった。
  • 1888年に初の合同展覧会がニュー・ギャラリーで開催され、この時に「アーツ・アンド・クラフツ」運動の名称が使われるようになった。



以下の 5 人は「セント・ジョージ・アート・ソサエティ」で詳述。
[ウイリアム・リチャード・レザビー]
[エドワード・シュレーダー・プライオアー]
[アーネスト・ニュートン]
[マーヴィン・マッカートニー]
[ジェラルド・C・ホースリー]
以下の 2 人は「ザ・フィフティーン」で詳述。
[ルイス・F・デイ]
[ウォルター・クレイン]




アール・ヌーヴォー

イギリス発のモダン・スタイルからアール・ヌーヴォーへ

  • アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけて興ったヨーロッパの美術運動。
  • モリスの理想を受け継ぎつつ、多様な源泉からインスピレーションを得た幻想的な装飾スタイル。
  • アーサー・ヘイゲイト・マクマードの椅子(1882年)や「レンのシティ・チャーチ」の挿絵(1883年)が初期の作例。




大陸へ伝播するアール・ヌーヴォー


各国の呼び方

①ベルギー:アール・ヌーヴォー、鞭様式、うなぎ様式、ヌードゥル様式
②イギリス:モダン・スタイル、リバティ・スタイル、グラスゴー・スタイル ③ドイツやスカンディナヴィア地域:ユーゲントシュティル、リフォルムシュティル(改革 様式)、波様式
④オーストリア:ゼツェッション、ウィーナー・ユーゲントシュティル ⑤イタリア:スティレ・リベルティ、スティレ・フロリアーレ(花の様式)、アルテ・ヌオ ーヴァ(新芸術)
⑥オランダ:ネーウェ・クンスト(新芸術)、
⑦スペイン:モデルニスモ、アルテ・ホヴェン(若い芸術)
⑧スイス:スティレ・サパン(もみの木様式)、
⑨ロシアで:マデ(ゼ)ン(現代) 、 ミーア・イクストゥヴァ(芸術世界) ⑩フランス:スティル・ヌーイ (麺類様式) 、ピン・トゥリー・スティル(松の木様式)、 スティル・メトロ、スティル・ギマール。
⑪フィンランド:カレヴァーラ・スタイル(フィンランドの民族叙事詩) ⑫デンマーク:スコンヴィルケ(美しい仕事)、
⑬アメリカ:ティファニー・スタイル
⑭ポルトガル:アルテ・ノヴァ(新芸術)
⑮日本では白馬
⑯ルーマニアではアールタ・ヌオア(新芸術) 、 ノウル・スティール(新様式)


  • 「アール・ヌーヴォー」は「新しい芸術」を意味する言葉で、エドモン・ピカールが使い始めた。
  • その語義は広がり、ベルギーからフランスへ伝わり、美術商サミュエル・ビングの店名「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」から一般的に使用されるようになった。
  • 狭義にはベル・エポックのフランスの装飾美術を指し、広義にはアーツ・アンド・クラフツ運動以降の世紀末美術やガウディの建築などを含む美術傾向を指す。
  • 特徴は非対称で有機的な植物の曲線や多様な素材の組み合わせによるダイナミックで豊かな装飾性。
  • 建築、インテリア、家具、工芸品、グラフィックなど幅広い分野に広がり、美術と応用美術の境界を超え、世界的に人気を博した。




ベルギーから伝播・拡大するアール・ヌーヴォー

  • ブリュッセルは、1880年代から「20人会」や「自由美学」といった芸術家集団が形成され、先進的な芸術家やデザイナーの中心地となっていた。
  • 1890年代のベルギーでは、アール・ヌーヴォーの代表的な芸術家としてポール・アンカー、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ、ヴィクトール・オルタなどが活躍した。
  • ブリュッセルではアール・ヌーヴォーの特徴が建築や家具などに取り入れられ、鉄やガラスなどの素材が有機的曲線と組み合わせられた。これらの特質はロンドンの「水晶宮(クリスタル・パレス)」やパリの「エッフェル塔」などで広まった。
  • 1900年代には、アール・ヌーヴォーの影響はティファニー、ミュシャ、ラリック、ガレなどの活動にも拡大していった。

以下がそれぞれの図に対するPukiwiki形式のリンクです:




ベルギーのアール・ヌーヴォー


ポール・アンカー

1859- 1901

  • ベルギーの建築家兼家具デザイナーで、アール・ヌーヴォー様式の革新者。
  • 建築家エンドリク・ベヤールトの事務所で働いた後、1893年に独立し「メゾン・ポール・アンカー」と呼ばれる事務所をブリュッセルに建て、初期のアール・ヌーヴォー様式の例とされる。
  • 彼の作品は、ルネサンス様式とアール・ヌーヴォー様式の要素を組み合わせ、対比的で洗練されたデザインを特徴としている。
  • 1897年のブリュッセルでの万国博覧会では、アール・ヌーヴォー様式のコンゴ館を担当。同様に、パリ万国博覧会(1900年)の鉱山・冶金部門に展示した作品も存在した。
  • 教育にも携わり、スカールベークの応用芸術学部で工学の教授を務め、その後ブリュッセル大学の建築史の教授に就任。
  • アール・ヌーヴォー様式を宣伝する雑誌「レミュラシォン」の編集者も務めた。


アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ

1863-1957

  • ベルギー出身で印象派絵画の影響を受けた。
  • 1895年にパリのサミュエル・ビングのギャラリー「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」でインテリアを手掛けた。
  • ベルリンで活動し、1902年にヴァイマールに工芸ゼミナールを設立。その後、工芸学校へと発展し、校舎の設計も手がけた。
  • 第一次世界大戦が始まり、ワイマールを離れざるを得なくなり、工芸学校をヴォルター・グロピウスに委託。その間にクレーラー・ミューラー美術館の設計を手がけ、後のバウハウスの前身となった。
  • 1925年にヘント大学美術史考古学研究所の教授に就任し、建築と応用芸術の講義を担当。1926年にはブリュッセルに「高等装飾芸術研究所」を設立した。


ヴィクトール・オルタ

1861-1947
ヴィクトール・オルタは、ベルギーの建築家であり、アール・ヌーヴォー運動の革新者でした。彼は多くの建築物を設計しました。彼の作品は多様で、次のような特徴があります

  • ベルギーのヘント芸術学校で学び、パリでインテリア・デザイナーとしての経験を積んだ。
  • ブリュッセル美術学校でポール・アンカーとの親交を深め、後に国王の宮廷建築家として活動。
  • アール・ヌーヴォーの先駆的な建築を多数手掛け、「タッセル邸」はその中でも特に有名。
  • 彼の作品は植物モチーフや鉄骨構造、複雑なインテリアを特徴とし、アール・ヌーヴォー建築の成功例とされる。
  • その後、古典的な様式に転向し、鉄骨の枠組みや天窓配置に独創的な設計を施した。
  • アール・ヌーヴォーが装飾過多と非難された際、彼の作品は一部が取り壊されたが、現在でも多くの作品が残り、ブリュッセルの主要な都市邸宅群として認識されています。




フランス/ナンシー派のアール・ヌーヴォー

ナンシー派は、フランスのナンシーを拠点に活動し、19世紀末から20世紀初頭にかけて重要な動きでした。主な特徴や背景は次のようになります

  • 草花や鳥、虫などの自然界の要素を強調したアール・ヌーヴォーの流れの中で、ナンシー派は独自の特徴を持っていました。
  • ナンシー派の興隆は、エミール・ガレがパリの万国博覧会で注目を集めたことから始まりました。ガレはガラスや陶器の作品で多くの賞を受賞し、その一門が注目を浴びました。
  • ナンシー派の形成は、普仏戦争後のアルザス・ロレーヌ地域の状況が背景にあります。その時期にドイツの支配があった後、ロレーヌ地方からフランス領へ移住が行われたことが一因となりました。
  • エミール・ガレやドーム兄弟、ジャック・グリュベールなどの工芸家たちによって形成され、フランスではガレや他のアーティストの作品が代表的です。彼らの作品はアール・ヌーヴォーの精神を具現化しています。
  • また、エクトール・ギマールやルイ・マジョレル、アルフォンス・ミュシャといったアーティストたちが、建築やデザイン分野で活躍し、その作品はフランスやパリのインテリアにも影響を与えました。


エミール・ガレ

1846 年-1904 年
彼はガラス製造や陶器の分野で多くの功績を残し、その経歴には以下のようなポイントがあります:

  • ドイツでガラス製造の技術を学び、パリの万国博覧会で作品を初めて展示しました。彼は戦争の影響でロレーヌ地方のシンボルを署名に加え、その後、ナンシーで工房を設立しました。
  • 多くの国際的な展覧会で作品を展示し、高い評価を受けました。特に、パリ万国博覧会では多くの賞を受賞し、彼の黒褐色のガラス作品は評判となりました。
  • 高島得三(北海)との交流により、日本の文化や植物に関する知識を得たとされています。この交流はガレの作品にも影響を与えました。
  • 1901 年にはナンシー派の会長に就任し、その後も活動を続けましたが、第一次世界大戦中に一時製造を中止し、会社の解散後に工場の敷地は売却されました。

彼の活動は装飾工芸の世界に大きな影響を与え、特にガラス製造の分野で革新的なアプローチを示しました。


ドーム兄弟

兄オーギュスト 1853-1909 と弟アントナン 1864-1930
エミール・ガレ兄弟の活動は装飾工芸の分野で数多くの功績を残しましたね。

  • エミール・ガレは多くの国際的な展覧会で成功を収め、その作品は数々の賞を受賞しました。特に、1891 年に新たに装飾工芸ガラスの制作部門を設立し、その後も金賞や大賞を多く受賞しました。
  • 彼の技法にはエナメル彩色や色ガラスの粉をまぶす「ヴィトリフィカシオン」があり、ルイ・マジョレルにデザインを依頼した金具を装着したガラス作品も制作していました。
  • 第一次世界大戦の影響で一時的に操業を停止しましたが、その後再開して活動を続け、アール・デコのスタイルで作品を生産しました。また、古代エジプトのガラス鋳造法である「パート・ド・ヴェール」を復活させ、透明クリスタルの製品「パート・ド・クリスタル」も製造しました。
  • 第二次世界大戦下では、古代の技術を現代的に応用し、「パート・ド・クリスタル」の製造に切り替えたこともあります。

そして、エミール・ガレ兄弟の工房は数多くの変遷を経て、1976 年に経営が傾いた後は何度も買収され、2009 年にはアルジェリアとフランスの金融業者プロスペル・アムゥヤルに買収されました。彼らの業績は装飾工芸の分野において長く評価され続けています。


ジャック・グリュベール

1870 - 1936 、

  • ジャック・グリュベールはギュスターヴ・モローに学び、装飾の分野で活躍した。
  • ステンドグラス制作やガラス加工のアトリエを立ち上げ、自然の植物をモチーフにした作品を手掛けた。
  • ナンシーの醸造所やメキシコシティのデパートにステンドグラスを制作し、独自の美しさと繊細さで称賛された。




ナンシー派以外のアール・ヌーヴォー/スティル・ヌーイ/スティル・メトロ/スティ ル・ギマール


エクトール・ギマール

1867-1942

  • 1882年にパリの装飾芸術学校に入学し、その後エコール・デ・ボザールで建築を学んだ。
  • 国立装飾芸術学院で絵画と遠近法を教える職に就き、1891年から1900年まで勤務した。
  • アール・ヌーヴォー建築のパリの集合住宅『カステル・ベランジェ』のデザインで注目を集めた。
  • 1890年から1930年にかけて、パリ地下鉄の141の入口や家具、装飾品をデザインした。
  • ラ・フォンテーヌ通りにある『カステル・ベランジェ』は、ギマールが1895年にベルギーを訪れ、ヴィクトール・オルタの邸宅に感銘を受けて着手し、1898年に完成した。
  • カステル・ベランジェは36戸全てが異なるプランで、外観には砂岩、レンガ、タイル、鉄などが使用され、鋳鉄細工には奇怪な生き物のようなデザインが施された。
  • 第二次世界大戦中にアメリカに亡命し、1942年に亡くなるまで忘却される存在となっていたが、後に評価が回復し、当時のフランスのアール・ヌーヴォー建築の象徴的存在として注目されるようになった。


ルイ・マジョレル

1859-1926

  • 1877年にパリのエコール・デ・ボザールに入学し、2年間学んだ後、父の死後にナンシーの家具・陶芸工房を引き継ぎ、「メゾン・マジョレル」を設立した。
  • 初めは伝統的なロココ風の家具を製作していたが、エミール・ガレの影響を受けてアール・ヌーヴォー様式に転換し、特にエボニー素材の家具に注力した。
  • 1898年以降、植物の形態を取り入れた彫塑的なアール・ヌーヴォー家具を制作し、異国風の象嵌細工を加えた作品を作り出した。
  • パリ万国博(1900年)で、食堂や寝室の家具、インテリア作品『睡蓮』を発表し、堅い材質を好んだガレとは異なる彫刻的なフォルムと男性的な表現を特徴とした。
  • ルイ・マジョレルはナンシー派の家具作家として知られ、1901年以降、ナンシー派の副会長を務めた。


アルフォンス・ミュシャ

1860-1939

  • 1877年にエコール・デ・ボザールに入学後、ウィーンで風景画家として働き、ミクロフで高く評価された。
  • パリでアカデミーで学び、週刊誌『ラ・ヴィエ・ポピュラール』にイラストを提供、ガ・ド・モーパッサンの小説などの挿絵を手がける。
  • 1894年にパリのサロンで展示され、名誉勲章を授与される。同年、サラ・ベルナールの舞台ポスターを制作し、注目を集める。
  • ミュシャはアール・ヌーヴォーの時代に活躍し、サラ・ベルナールの舞台ポスターを通じて名を馳せた。
  • ポスター芸術の成功で多くの企業からポスター制作の依頼を受け、多くの広告ポスターを手がけた。
  • ミュシャは後半の人生で故郷に戻り、スラブ人の歴史を描いた20作品を制作した。




アール・ヌーヴォーの終焉

  • アール・ヌーヴォーは一時代を築き、世界中で大きな注目を集めました。
  • 第一次世界大戦の始まりと共に勢いを失い、新しいアール・デコやモダニズムが登場しました。
  • しかし、1960年代後半に再評価され、その人気が再燃しました。
  • 現代に至っても、アール・ヌーヴォーは芸術や建築の世界で根強い人気を保っています。




ドイツのユーゲントシュティル

  • 1896年、ミュンヘンで『ユーゲント』雑誌が創刊され、「ユーゲントシュティル(青春様式)」の名が生まれた。
  • 「ユーゲントシュティル」はドイツで、合目的性や構造を重視する傾向があり、小説やポスターで顕著に表れた。
  • ドイツ各地に中心地があり、例えばミュンヘンでは手工芸術連合工房が設立され、ダルムシュタットでは「芸術家村-マチルダの丘」が開設された。
  • 「ユーゲントシュティル」の理念は「構成と装飾の一致」であり、美と実用性の融合を目指していた。
  • 建築では機能性を重視しつつ幾何学的な模様や有機的な曲線美が特徴で、工芸品は高級感や独自性を重んじた。


ヘルマン・オブリスト

  • ヘルマン・オブリストは自然科学と医学を学び、後に芸術に転向。
  • カールスルーエの応用芸術学校で芸術工学を学び、手工業芸術の工房連盟を創設。
  • 陶芸と家具で1897年のパリ万博で受賞し、彫刻の授業も受けた。
  • 刺繍工房「ベルト・ルシェ」を開設し、アール・ヌーヴォー要素が顕著な《シクラメン》を代表作とした。


アウグスト・エンデル


フランツ・フォン・シュトゥック

  • 1881年から1885年までミュンヘンの工芸学校と美術アカデミーで学び、影響を受けた画家にフランツ・フォン・レンバッハやアルノルト・ベックリンがいた。
  • パリ万国博覧会での金賞受賞後、ミュンヘンに定住。寓意的な神話画や宗教画、肖像画を描き、ミュンヘン分離派の創始者の一人として活躍。
  • ミュンヘン美術院で教授となり、パウル・クレー、ワシリー・カンディンスキー、ヨゼフ・アルバースなどの教え子を育てた。
  • バイエルン王冠勲章を受勲し、社交界でも活躍。1897年にアメリカ人女性と結婚し、ヴィラ・シュトゥックを設計した。
  • 作品《アマゾンとの闘い》はヘルマン・ゲーリングの別荘に飾られ、代表作に《サロメ》がある。


ペーター・ベーレンス

  • 1886年から1889年にかけてハンブルク、デュッセルドルフ、カールスルーエで絵画を学ぶ。
  • 1890年にリリ・クレイマーと結婚し、ミュンヘンへ移住。
  • 1899年にヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの招待でダルムシュタット芸術家コロニーを創設し、独自のユーゲントシュティル様式の家を建てた。
  • 1903年にデュッセルドルフ応用芸術大学の教授に任命され、1907年にドイツ工作連盟を設立。
  • AEGから芸術コンサルタントとして招かれ、工業デザイナーとして活躍。ベルリンのAEGのタービン工場などを設計。
  • 1913年にサンクト・ペテルブルクのドイツ大使館、1912年~1914年にハノーヴァーのコンチネンタルAGの管理棟オフィスビルを設計。
  • 1922年にウィーン美術院建築学校長に就任し、建築教育に貢献。グロピウスやミース・ファン・デル・ローエらが在籍する彼の建築事務所では新即物主義の傾向が見られた。




オーストリアの分離派 | ゼツェション/セセッション

  • 1897年、画家クリムトらによってウィーン分離派が結成。
  • オーストリアで伝統的な造形からの離脱を目指し、新しい芸術表現を模索。
  • アール・ヌーヴォーやアーツ・アンド・クラフツなどの影響を受け、新たな芸術様式を模索。
  • 23回にも及ぶ展覧会を通じて、モダン・デザインの先駆者として活動。


ギュターヴ(グスタフ)・クリムト

  • 1876年から1883年まで建築画を学び、後に彫刻家へ転向。
  • 彫刻や絵画において寓話的な作品や風景画を描き、日本の芸術にも影響を受ける。
  • 1897年、ウィーン分離派の創設メンバーとなり、定期刊行物『聖なる泉』を発刊。
  • 1900年頃にウィーン大学の大ホール天井にポルノグラフィックと批判された作品を制作。


ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ

  • 建築の学びを受け、ウィーン美術アカデミーで学び、オットー・ヴァーグナーの下で働く。
  • ゼツェッション館の設計など、分離派の象徴的建造物を手掛け、ヘッセン大公の後援する芸術家コロニーの建設を指揮。
  • 1900年にヘッセン市民権を取得し、教授に任命され、多くの実験的な建築委員会を運営。
  • 分離派の実験的精神は後のユーゲントシュティルやバウハウスへと継承され、総合芸術から影響を受けた工芸、家具、絵画、彫刻を統合したデザインへと展開。


ヨーゼフ・ホフマン

  • 1887年にブリュンの高等工芸学校に転校し、翌年学士号を取得、その後ウィーン美術アカデミーで学ぶ。
  • オットー・ヴァーグナーに指導され、ローマ賞を受賞し、イタリアで建築を学ぶ機会を得る。
  • 1894年にジーベナー・クラブを設立、1897年にはウィーン分離派を創設。
  • ゼツェッション館の内装を手掛け、ウィーン工房を共同設立、ブリュッセルのストックレー邸をデザインした。


コロマン・モーザー

  • コロマン・モーザーはウィーン・アカデミーとアーツ・アンド・クラフツ工芸学校で学び、後に工芸学校の教員に就任。
  • 1897年にウィーン分離派に参加し、グラフィックデザインの『源泉』を刊行。
  • 1903年にヨーゼフ・ホフマンと共に「ウィーン工房」を創設し、家庭用製品のデザインを手がける。
  • 1905年にウィーン分離派を離脱し、同年に結婚。
  • 1907年にウィーン工房から離れる。


イタリアのスティレ・リバティ

  • イタリアのアール・ヌーヴォーは「リバティ・スタイル」としても知られる。
  • トリノのジャーナリスト、エンリコ・トーベスはこの新しいスタイルについて、「忠実に自然主義的でありながら実質的に装飾的」と表現し、興奮と驚きを示した。
  • 1925年のトリノでの「現代装飾および工芸国際展」では、アール・ヌーヴォーの影響が建築分野で顕著であり、「装飾芸術のルネサンス」が賞賛された。
  • ライモンド・ダロンコやトリノ出身のピエトロ・フェノグリオなどの建築家は、当時のイタリア建築の中で最も多様で輝かしい例として称賛された。

図83. ライモンド・ダロンコの画像検索-
図84. ライモンド・ダロンコ、「Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels Modernes」トリノのメインビルの画像検索-
図85. ピエトロ・フェノグリオの画像検索-
図86. ピエトロ・フェノグリオ、1845年に設立されたイタリアの醸造所のパビリオンの画像検索-
図87. ピエトロ・フェノグリオによるザクロの扉、ジョバンニ・アルジェンテロ 4 番地の画像検索-




スペインのモデルニスモ

  • スペインのアール・ヌーヴォーは「モデルニスモ」としても知られ、特に「カタロニア・モダニズム」と呼ばれ、文学や芸術に影響を与えた歴史学派の通称とされる。
  • カタロニア文化の新しい芸術運動と考えられ、特に建築をはじめとする絵画、彫刻、デザイン、装飾芸術などで顕著な影響が見られる。
  • 1888年のバルセロナ万国博覧会から1911年のジョアン・マラガユの死まで隆盛を極め、特にバルセロナで華やかな建築装飾として顕著になった。
  • 代表的な建築家としては、アントニ・ガウディが有名で、画家としてはサンティアゴ・ロシニョール、ラモン・カサス、イシドレ・ノネイ、エルメン・アングラダ・カマラサ、ジョヨ・アキム・ミールエリゼウ・メイフレン、ルイザ・ビダル、ミケル・ユトリヨなどが活躍した。
  • 彫刻家としては、ジョセップ・リモーナ、エウゼビ・アルナウ、ミケル・ブレイなどが重要な役割を果たした。

図88. アントニ・ガウディの画像検索-
図89. アントニ・ガウディ、サグラダ・ファミリアの画像検索-
図90. アントニ・ガウディ、カサ・ミラの画像検索-
図91. アントニ・ガウディ、カサ・バトリョの画像検索-
図92. サンティアゴ・ロシニョール、1926年頃の画像検索-
図93. サンティアゴ・ロシニョール、バルセロナの公式商工会議所、1901-1902年の画像検索-
図94. ラモン・カサスの自画像、1908年の画像検索-
図95. ラモン・カサス、《淑女バラバラディア(モデル:テレサメストレとクリメント)》1908、油彩、個人蔵の画像検索-
図96. ラモン・カサス、《イシドレ・ノネイの肖像》、1897-1899、カタルーニア国立美術館の画像検索-
図97. イシドレ・ノネイ、《ドロレス》、1910、サンタンダー銀行、マドリッドの画像検索-
図98. エルメン・アングラダ・カマラサ(エルメネギルド・アングラダ・カマラサ)、《自画像》、1915年頃、バルセロナ、美術宮殿の画像検索-
図99. エルメン・アングラダ・カマラサ(エルメネギルド・アングラダ・カマラサ)《ブルリアンの女の子》、1911、エルメネギルド・アングラダ・カマラサ美術館の画像検索-
図100. ジョアキム・ミール、ポートレイト写真、1915、バルセロナでのジョアキム・ミール展示カタログの画像検索-
図101. ジョアキム・ミール、《青池の光》、1911年頃、バルセロナの画像検索-
図102. エリゼウ・メイフレン肖像写真(アントニオナポレオンによる)、の画像検索-
図103. エリゼウ・メイフレン《魚屋》キャンバスに油彩、1902、ペドロ・マサベウコレクションの画像検索-
図104. ルイザ・ビダルの自画像の画像検索-
図105. ルイザ・ビダル《マルセル 甥》キャンバスに油彩、1906年頃の画像検索-
図106. ミケル・ユトリヨ《肖像画》(サンティアゴ・ラッセルによる)、1889-1890、カタルーニア国立美術館の画像検索-
図107. ミケル・ユトリヨ《若者》、1900-1906、第7号の画像検索-
図108. 《ジョセップ・リモーナ》ラモン・カサスによる、カタルーニア国立美術館の画像検索-
図109. ジョセップ・リモーナ《守護天使》、1894-1895、コミラスゴシック教会跡の画像検索-
図110. エウゼビ・アルナウの肖像写真の画像検索-
図111. エウゼビ・アルナウ、《マリーナ(海)》の画像検索-
図112. ミケル・ブレイの肖像写真の画像検索-
図113. ミケル・ブレイ《侵略者への対峙》、1891、ジローナミュージア・ミュージアム・オブ・アートの画像検索-




アール・デコ


名称〜始まり

  • アール・デコは第一次世界大戦前のフランスで生まれた芸術・デザイン様式。
  • 幾何学的な形態、鮮やかな色彩、様々な文化要素を取り入れた特徴がある。
  • 建築、家具、ジュエリー、ファッション、電化製品などに影響を与えた。
  • 社会的地位向上や装飾芸術家に著作権が与えられるなど、社会的な変化ももたらした。
  • 伝統主義とモダニズムの二つの流れがあり、伝統的なデザインと新しいモダニズムの両方の側面を持っていた。

図1. 国際現代装飾展、ポスターの画像検索-
図2. 『芸術と装飾』1897創刊、1901年ミュシャによる表紙の画像検索-
図3. 『現代芸術装飾』表紙 1898 の画像検索-
図4. エミール・ジャック・ルールマン《ラサール・ドレッサー》、1925年頃、メトロポリタン美術館、ニューヨークの画像検索-
図5. ジャン・デュナール、家具、1925年頃 の画像検索-
図6. アントワーヌ・ブールデル《ラ・フランス》、1922-1925、ブールデル美術館 の画像検索-
図7. ポール・ポワレ、2つのドレスデザイン画、1911 の画像検索-
図8. ピエール・シャローとベルナール・ビジョエッ《ガラスの家》フロント・ファサード、1928-1932 の画像検索-
図9. フランシス・ジョルダン《サマリテーヌ・デパート》、1905-1907 の画像検索-
図10. ロベール・マレ=スティーヴンス《バリー・ショップ》パリ、1928-1929 の画像検索-
図11. ル・コルビュジエ《ヴァイセンホーフ・ジードルングの家》ヴァイセンホーフの丘シュッテュットガルト、1927 の画像検索-
図12. アイリーン・グレイ、テーブルライトの画像検索-
図13. アイリーン・グレイ、テーブルの画像検索-
図14. ソニア・ドローネー《偉大なポルトガル人》1916、キャンヴァスに油彩とワックス、カルメンティッセン-ボルミッサ の画像検索-
図15. ジャン・ピュイフォルカ《銀製ティーポット》1922、銀、ラピス・ラズリ、象牙 の画像検索-




パリ国際近代装飾工芸展/「1925 年様式」

  • 1925年に開催された「パリ国際近代装飾工芸展」は、フランス政府の公式後援のもと、4月から10月まで行われた。
  • 展示の主な目的は、高級家具、磁器、ガラス、金属細工、織物、植民地製品などのフランスの装飾品の宣伝であり、国の威厳を示すことが主眼だった。
  • 初期のアール・デコの特徴である明るい色彩や高価な素材の使用は見られたが、同時に対称性や幾何学的なフォルム、機能性を重視するモダニズム・スタイルも現れていた。

図16. 「パリ国際近代装飾工芸展」に出品を許可された公式証明書(例としてイヴァン・ゴリコフ(ソビエト))、1925の画像検索-
図17. 「パリ国際近代装飾工芸展」《名誉の門とアレクサンドル橋》、1925の画像検索-
図18. グラン・パレの画像検索-
図19. セーヌ川から見たオテル・デ・ザンヴァリッド(トロカデロの庭を通して見るアングル)の画像検索-
図20. 「パリ国際近代装飾工芸展」《コレクターの部屋》に展示されたルールマンの家具、1925の画像検索-
図21. 「パリ国際近代装飾工芸展」に出品されたジャン・デュパの絵画作品、1925の画像検索-
図22. ル・コルビュジエ《新ソビエト連邦館》「パリ国際近代装飾工芸展」1925の画像検索-
図23. ル・コルビュジエ《ヌーヴォー・エスプリ館》「パリ国際近代装飾工芸展」1925の画像検索-
図24. オーギュスト・ペレ、《シャン・ゼリゼ劇場》、1910-1913の画像検索-
図25. アンリ・ソヴァージュ《底価格住宅》、1903の画像検索-
図26. レイモンド・フッド、《アメリカン・ラジエーター・ビル》、1924年の画像検索-




アール・デコ〜モダニストの建築

モダニストのワート・C.ローランドにより設計されたデトロイトのガーディアン・ビルは、 伝統的な装飾に代わり色彩を多用したほか、ステンレス鋼を最初に用いた作例として知ら れている。

図27. ワート・C.ローランド《ガーディアン・ビル》デトロイト、1929の画像検索-
図28. ウィリアム・ヴァン・アレン《クライスラー自動車ビル》、1930の画像検索-
図29. ル・コルビュジエ《サヴォア邸》、1929-1931の画像検索-
図30. アール・デコ様式のジュークボックス《ロック・オーラ・カプリ II》、1965の画像検索-


インテリア

  • ポルト・ドレ宮殿の内装は、コロニアル様式で作られ、動植物を約5000種類も描いた豊かな装飾でフランス植民地の繁栄を表現しています。ロビーには幾何学模様の寄木細工の床や垂直ドア、水平バルコニーがあり、壁画にはフランス植民地の人々が描かれています。
  • 1920年代から1930年代にかけて建てられた映画館も、アール・デコのインテリアの優れた例です。この時期は無声映画から音声映画への移行が行われ、都市部に大規模な劇場が建設され、エキゾチックなテーマ性のアール・デコ様式が内装に採用されました。例えば、ハリウッドのグローマンズ・エジプシャン・シアターは古代エジプトの墓をモチーフにしており、カリフォルニア州ベイカーズ・フィールドのフォックス・シアターはアール・デコ様式のホールにカリフォルニア・ミッションスタイルの塔を組み合わせました。
  • ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージック・ホールは知られる巨大な映画館で、6,015人を収容できます。このホールの内装デザインはドナルド・デスキーにより行われ、ガラスやアルミニウム、クロム、皮革など近代的な素材が使用されています。

図31. アルバート・ラプラード、ポルト・ドレ宮殿インテリア、1931の画像検索-
図32. アルバート・ラプラード、レオン・ジョセリー、レオン・バザン、ポルト・ドレ宮殿室内装飾、1931の画像検索-
図33. アルバート・ラプラード、レオン・ジョセリー、レオン・バザン、ポルト・ドレ宮殿室内装飾、1931の画像検索-
図34. アルバート・ラプラード、レオン・ジョセリー、レオン・バザン、ポルト・ドレ宮殿ロビーの幾何学模様の寄木細工の床、1931の画像検索-
図35. アルバート・ラプラード、レオン・ジョセリー、レオン・バザン、ポルト・ドレ宮殿ロビーの壁画《植民地の人々》、1931の画像検索-
図36. グローマンズ・エジプシャン・シアター外観、ハリウッド、1922の画像検索-
図37. グローマンズ・エジプシャン・シアター内観、ハリウッド、1922の画像検索-
図38. フォックス・シアター外観、ベイカーズ・フィールド、1930年オープンの画像検索-
図39. フォックス・シアター床タイル、ベイカーズ・フィールド、1930の画像検索-
図40. フォックス・シアターボックス・オフィス、ベイカーズ・フィールド、1930の画像検索-
図41. ラジオ・シティ・ミュージック・ホール外観、ニューヨーク、1932年オープンの画像検索-
図42. ラジオ・シティ・ミュージック・ホール内観、ニューヨーク、1932年オープンの画像検索-
図43. ラジオ・シティ・ミュージック・ホール壁画、ニューヨーク、1932年オープンの画像検索-
図44. パラマウント・シアター、外観, カリフォルニア州オークランド、1931の画像検索-
図45. パラマウント・シアター、天井装飾, カリフォルニア州オークランド、1931の画像検索-
図46. パラマウント・シアター、女性用喫煙室, カリフォルニア州オークランド、1931の画像検索-


家具

  • 1910年代から1920年初頭のフランスの家具は、伝統的なスタイルを継承し、豊富な装飾が施されていました。1910年のサロンにおいて、フランツ・ジュールダンはミュンヘンのデザイナーを招き、新たな挑戦を始めました。
  • 1912年のサロンでは、ジュールダンはモダン・スタイルの展示に限定し、ポール・フロ、ポール・イリ―ヴ、モーリス・デュフレーヌ、アンドレ・グルー、アンドレ・マール、ルイ・スイなどが参加しました。彼らは熟練した職人のチームを結成し、家具、ガラス製品、カーペット、セラミック、壁紙、照明など、トータル・インテリア・デザインを手がけました。特に画家のアンドレ・マールと家具デザイナーのルイ・スイは「カンパニー・デ・ザール・フランセイズ」という独自の会社を設立し、上質な素材を使用して様々なアイテムをデザインしました。
  • 一方で、伝統的手法の家具デザイナーであるジュール・ルルは、国際連盟のいくつかの国のフランス大使館や蒸気船SSノルマンディのキャビンの家具を設計し、象牙や真珠母、黒檀、マカッサルの木、クルミなどを使用しました。1920年代後半には漆塗りのアール・デコ家具も発表しました。
  • その後、アール・デコ様式のインテリアは、都市の景観、機関車、現代的な女性像、メタリックカラー、幾何学的形態などへの変化が顕著になりました。

図47. ポール・フロ、ダイニング・ルームのペアの椅子、1912 以降、オルセー美術館の画像検索-
図48. ポール・イリーヴ、引き出し装飾、1919 頃の画像検索-
図49. モーリス・デュフレーヌ、1912、オルセー美術館の画像検索-
図50. ジュール・ルル、サロン家具、1930 年代、ブローニュ・ビランクール美術館の画像検索-
図51. ジュール・ルル、サロン家具、1930 年代、ブローニュ・ビランクール美術館の画像検索-
図52. ジュール・ルル、サロン家具、1930 年代、ブローニュ・ビランクール美術館の画像検索-
図53. ジュール・ルル、サロン家具、1930 年代、ブローニュ・ビランクール美術館の画像検索-
図54. クライスラービル、セントラル・エレヴェーター〜42 階入り口通路、1928-1930の画像検索-
図55. ニューヨーク、メロン銀行(前身:ニューヨーク銀行)、ラウンジモザイク、1784 年創立の画像検索-


テキスタイルとファッション

  • 1920年代のアール・デコは、バレエ・リュスの舞台セットやレオン・バクストがデザインした生地やコスチューム、ウィーン工房の作品などから影響を受けていました。ポール・ポワレ、ジャン・パトゥ、シャルル・フレデリック・ワースなどのデザイナーにより、特徴的な要素が顕著に表現されました。例えば、様式化された花のモティーフが使用されたり、その他の特徴が見られました。
  • 特に第一次世界大戦後のフランスでは、衣料品や織物の輸出が重要な通貨獲得手段であり、アール・デコのデザイナーに対する需要が急速に増加しました。この時期にデザイナーとして活躍したポール・ポワレやその後に続いたココ・シャネルは、ファッション界において劇的な変革をもたらしました。

図56. バレエ・リュスの舞台背景(ピカソの下絵に基づく)、シャトレ劇場、パリ、1917年の画像検索-
図57. レオン・バクストデザイン生地のデザインとコスチューム《スルタン》、1910の画像検索-
図58. レオン・バクストデザイン生地のデザインとコスチューム《アタランタ》1912の画像検索-
図59. ポール・ポワレ、舞台衣装、1920年ころの画像検索-
図60. ポール・ポワレ、コート、1925年ころの画像検索-
図61. ジャン・パトゥ、イヴニング・ドレス、1923年ころ、ファッション雑誌のページの一部の画像検索-
図62. ジャン・パトゥ、イヴニング・ドレス、1926年ころ、ファッション雑誌の一部の画像検索-
図63. シャルル・フレデリック・ワース、ドレス、1880年代、ルイ16世スタイル・パターン、ワースハウスの画像検索-
図64. ポール・ポワレ、《古典ギリシャ風キトン》、1920の画像検索-
図65. ポール・ポワレ、《イヴニング・ドレス》、1922-1923の画像検索-
図66. ポール・ポワレ、《フレンチ・イヴニング・ドレス》、1922ころの画像検索-
[[図67. ココ・シャネル、1920年代のトレンドの画像検索->https://www.google.com/search?q=Coco+Chanel%2C+T


グラフィックス

  • アール・デコのグラフィックデザインは第一次世界大戦前に登場し、初期のパリではバレエ・リュスのレオン・バクストのポスターやコスチュームが大きな影響を与えた。
  • パリのグラフィックスでは、ポール・ポワレのカタログや、ジョルジュ・バルビエ、ジョルジュ・ルパープのイラスト、そしてファッション雑誌「ラ・ガゼット・デュ・ボン・トン」の画像などが、スタイルの優雅さと官能性を表現していた。
  • 1920年代に入ると、スタイルはよりカジュアルでスポーティに変化し、大胆で印象的なイラストやたばこを吸う女性モデルなどが注目された。
  • アメリカのファッション雑誌である『ヴォーグ』、『ヴァニティ・フェア』、『ハーパーズ・バザー』もこの新しいスタイルを取り入れ、アメリカの挿絵画家の作品にも影響を与えた。
  • ルートヴィヒ・ホルウェインは、ドイツのポスターアーティストで、ポスター制作で広く知られており、初めは音楽祭やビール会社のポスターから始め、後にナチス・ドイツのプロパガンダ用ポスターも手がけた。
  • 1920年代には、ポスターの需要が蒸気船会社や航空会社の旅行広告に拡大し、その時代に合わせて「アール・デコ」スタイルも変化した。
  • フランスの有名なポスターアーティストとして、シャルル・ルーポやポール・コランが単色を用いたメッセージ性の強いポスターを制作し、ジャン・カルリュはイタリアのチンザノ酒製造会社のポスターやアメリカで戦争関連のポスターを制作した。
  • チャールズ・ゲスマーは歌手のミスタンゲットとエール・フランスの広報などで成功を収め、1935年にはSSノルマンディのポスターを手掛けたカサンドレは、フランスで最も有名なグラフィックデザイナーの一人とされている。

図70. ジョルジュ・バルビエ、ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキーのバレエ広告用ポスター、1913の画像検索-
図71. ジョルジュ・バルビエ、ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキーとルビンシュタインのバレエ《アイーダ》広告用ポスター、1913の画像検索-
図72. ジョルジュ・ルパープ《ターバンを巻いた女》、『ポール・ポワレ選集』、1911の画像検索-
図73. ジョルジュ・ルパープ《若い母親》、『ガゼット・デ・ボントン』、1913の画像検索-
図74. ジョルジュ・ルパープ《ポール・ポワレによるテーラードスーツ》『ガゼット・デ・ボントン』、1913の画像検索-
図75. 《タバコを吸う女性》フレンチ・ヴォーグのイラスト、『ヴォーグ』、1920年7月号の画像検索-
図76. 《ダンスをする男女》『ヴァニティ・フェア』1920年3月号表紙の画像検索-
図77. 《乗馬をする女性》『ヴァニティ・フェア』1920年4月号表紙の画像検索-
図78. 『ハーパーズ・バザー』1916年2月号表紙の画像検索-
図79. ロックウエル・ケント、蔵書票《女性》、1920、モノクロ銅版画の画像検索-
図80. ルートヴィヒ・ホールウェイン《バーグシュタット・ヴェルラグ・ブレスラウ》『11 論文からなる論文集』ポスターの画像検索-
図81. ルートヴィヒ・ホールウェイン《ヴィースバーデンの春》小さなポスター、1926の画像検索-
図82. ルートヴィヒ・ホールウェイン《新しいウールジャケット?パーシル》ポスター、1920の画像検索-
図83. ルートヴィヒ・ホールウェイン《身を守り、身を守り、目を覚ます。ワイマル共和国軍バイエルに報告せよ》ポスター、1918の画像検索-
図84. ユニオン蒸気船社広告ポスター、1926、イギリスの画像検索-
図85. AB アエロトランスポート社、広告ポスター《スウェーデン旅行》、1920年代の画像検索-
図86. ABA&KLM 広告リーフレット《オランダ-スウェーデン》、1928の画像検索-
図87. シャルル・ルーポ、オレンジリ・キュール《コワントロー》のポスター、1930の画像検索-
図88. ポール・コラン《ワイン配達人》、1933の画像検索-
図89. ジャン・カルリュ《チンザノ》の画像検索-
図90. ジャン・カルリュ、第二次世界大戦中の戦争関連商品の生産を鼓舞するポスターの画像検索-
図91. チャールズ・ゲスマー《ミンスタンゲット》の舞台宣伝ポスター、1924の画像検索-
図92. チャールズ・ゲスマー、エール・フランスの広報誌表紙の画像検索-
図93. カサンドレ、《遠洋定期船 SS ノルマンディ》のポスター、1939の画像検索-


ジュエリー

  • 1920年代から1930年代にかけて、宝石の使用方法に変化が見られ、エメラルド、ルビー、サファイアなどのカラフルな宝石が試みられた。また、エナメル、ガラス、象牙なども巧みで優雅なデザインに組み込まれ、伝統的なダイヤモンドの使用から逸脱したカットが使用されるようになった。
  • 1925年の「パリ国際近代装飾工芸展」では、ダイヤモンドが細く小さな棒状にカットされ、金の代わりにプラチナやエナメル、ブラック・オニキスなどが使われた。
  • ジュエリーのスタイルは従来のダイヤモンドのみから多様化し、カルティエやフレデリック・ブシュロンは、ダイヤモンドと多彩な宝石を組み合わせたブローチ、リング、イヤリング、ペンダントなどを製作し、極東のテーマも取り入れた。
  • サンゴ、翡翠、真珠母、漆などがダイヤモンドと組み合わせられ、ヴァニティ・ケースやたばこケース、パウダーボックスなどのデザインへと展開していった。
  • ファッションの変革が新しいジュエリーの製作を促し、ノースリーブのドレスの登場により、手首や二の腕を装飾する「ブレスレット」が注目され、ラピス・ラズリ、オニキス、サンゴなどを使った装飾品が生まれた。
  • 第一次世界大戦前にはじまった腕時計は、ダイヤモンドを敷き詰め、エナメル、金、銀で飾られ、ペンダント型の時計もより華やかになった。
  • ジュエリーハウスのカルティエ、ショーメ、ジョルジュ・フーケ、モーブッサン、ヴァン・クリーフ&アーペルなどは、新しいアイディアでジュエリーや装飾品を製作。ショーメは翡翠やラピス・ラズリ、ダイヤモンド、サファイアで装飾された幾何学的なパターンのたばこケースやライター、ピルボックスなどを製作し、レイモンド・テンプリアーは複雑な幾何学模様のシルバーのイヤリングなどを作成した。
  • 図 96. クライスラー社、ロンドン–ミッドランド&スコティッシュ鉄道《エアフロー1933》、流線型構造の蒸気機関車、1933 検索結果-
  • 図 97. 《エアストリーム》1933 年のクライスラーCO モデルを下敷きにしたデザイン、1934 検索結果-
  • 図 98.《遠洋定期船 SS ノルマンディ》、1930 検索結果-
  • 図 99.《遠洋定期船 SS ノルマンディ》、1930 検索結果-
  • 図 100. ロジャー・アンリ・エクスペール《遠洋定期船 SS ノルマンディ ダイニング・ルーム》、1935 検索結果-
  • 図 101. レイモンド・シューブ《SS ノルマンディのブロンズ扉メダイヨン》 検索結果-
  • 図 102. ルネ・ラリック《SS ノルマンディのサロン装飾》 検索結果-


ガラス工芸

  • アール・デコは時代に即した建築環境に適合して進化していきました。ガラス工芸家のルネ・ラリックは第一次世界大戦前に香水瓶のデザインなどを手がけ、ガラスを芸術的な彫刻として位置づけ、様々な作品を製作しました。彼は鉛クリスタルではなくデミ・クリスタルを使用し、着色ガラスや乳白色ガラスを用いることもありました。
  • 1935年に設計したSSノルマンディやフランス鉄道寝台列車では、彼の装飾ガラスパネルや照明付きガラス天井が豪華さを際立たせました。彼は1925年の「パリ国際近代装飾工芸展」でも活躍し、ガラス天井に一致するダイニングルームや美しいガラスの噴水をデザインしました。
  • その他にも、彫刻や女性の裸体をモチーフにした作品で知られるエドモンド・エトリングや、アール・ヌーヴォーのデザイナーであったドーム兄弟などが活躍しました。ガブリエル・アルジ・ルソーやフランソワ・デコルシュモンも、カラフルで繊細な花瓶を製作しました。
  • 1930年代後半の世界恐慌は、裕福な顧客に依存していた装飾ガラスデザイナーたちを実用的なガラス製品の製作に転換させました。アール・ヌーヴォー様式のエヴェニストであるルイ・マジョレルも、アール・デコ様式のステンドグラス製窓などを制作しました。
  • 1932年から34年にかけて、アミアン大聖堂においてジャン・ゴーダンがジャック・ル・ブルトンの絵に基づいて制作した聖心の礼拝堂のステンドグラスは、アール・デコ様式を象徴しています。
  • 図 103. ルネ・ラリック《フランソワ・コティの香水瓶》 検索結果-
  • 図 104. ルネ・ラリック《フランソワ・コティの香水瓶》 検索結果-
  • 図 105. ルネ・ラリック《花器/花瓶》、1920 ころ 検索結果-
  • 図 106. ルネ・ラリック《セーヴル・パヴィリオンテーブル・セッティング》「パリ国際近代装飾工芸展」1925 検索結果-
  • 図 107. ルネ・ラリック《クール・デ・メティエのために側面から水が吹き出るガラスの噴水》「パリ国際近代装飾工芸展」1925 検索結果-
  • 図 108. ルネ・ラリック《自分用のパヴィリオン》 検索結果-
  • 図 109. エドモンド・エトリング《ドレープのある入浴》 検索結果-
  • 図 110. アリスティド・コロット《エッチングのある花瓶》 検索結果-
  • 図 111. モーリス・マリノ《エッチングのある花瓶》 検索結果-
  • 図 112. ドーム兄弟《花瓶》 検索結果-
  • 図 113. ガブリエル・アルジ・ルソー《ニンフのいる花瓶》1926 検索結果-
  • 図 114. フランソワ・デコル《シモンマーブル模様のあるボウル》(パート・ド・クリスタル) 検索結果-
  • 図 115. ルイ・マジョレル《製鉄所に鉄鋼労働者をモティーフにしたアール・デコ様式のステンドグラス製窓》ロンウィー 検索結果-
  • 図 116. ジャン・ゴーダ《窓のステンドグラス》ジャック・ル・ブルトンの絵に基づいて制作、アミアン大聖堂、聖心の礼拝堂、1933 検索結果-


アール・デコのその後

  • 第二次世界大戦後、アール・デコは一時的に衰退した。
  • 1960年代になり、建築家や専門家によって再評価され、学術的に復活する運動が始まった。
  • 1970年代にはアール・デコ建築の最盛期の建物が保存されるようになった。ベビスヒリアーなどの建築家たちがその価値を再認識し、保存活動が進んだ。
  • 1980年代にはポストモダン建築が登場し、一部のデザインにはアール・デコの特徴や装飾性が含まれることがある。この時代の建築において、アール・デコの復活を思わせる要素が見られた。




バウハウス

バウハウスは、ヴァイマル共和国時代のドイツにおいて、芸術と工業を融合させた新しい芸術学校として 1919 年に設立されました。その後、バウハウスは 1925 年にヴァイマルからデッサウに移り、1928 年にはデッサウでの活動を終え、最後の期間をベルリンで過ごしました。バウハウスの展開には次のような主要な指導者が関与していました:

  • ヴァイマル(1919-1925):ヴァルター・グロピウスが校長を務め、パウル・クレー、ワシリー・カンディンスキー、ラーズロー・モホイ=ナジなどが関与しました。
  • デッサウ(1925-1928):グロピウスも引き続き校長を務め、建築家のルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが加わりました。
  • ベルリン(1928-1933):ラスロー・モホイ=ナジが校長を務めましたが、ナチス政権の台頭により閉鎖されました。

バウハウスのスタイルと教育方法論は、後の時代のモダニズムの発展や多岐にわたるデザイン分野に大きな影響を与えました。

ヴァルター・グロピウスハンネス・マイヤー ミース・ファン・デル・ローエ
ワイマール1919~1925 (国立)1919~1928
デッサウ1925~1932 (市立)1919~19281928~19301930~1933
ベルリン1932~1933 (私立)1930~1933




バウハウスとドイツ・モダニズム

  • 第一次世界大戦後、ワイマール共和国期における芸術の興隆がバウハウスの設立を後押しした。
  • バウハウスは、政治的・社会的な問題から距離を置き、工芸と芸術の融合、実用性と機能性の強調を掲げた。
  • バウハウスの哲学は、工業と芸術の統合を追求し、個々の芸術的表現と調和する合理的な形態を模索した。
  • 芸術作品における目的とデザインの調和、装飾の最小化を重視し、ウィリアム・モリスの思想や「形態と機能の一致」を理想とした。
  • ドイツ工作連盟やペーター・ベーレンスの試みは、実用性と美しさ、大量生産と芸術性の調和を追求し、バウハウスの理念と一致していた。




ワイマール

  • 1919年、ヴァイマールで「国立バウハウス・ヴァイマール」が創設された。このバウハウスはグランデュカルサクソン美術アカデミーと美術工芸学校の合併により生まれたもので、建築部門も設けられた。
  • バウハウスは、アール・ヌーヴォー建築家であるアンリ・ヴァンデ・ヴェルデが指導した美術工芸学校を母体にしており、第一次世界大戦後、ヴァルター・グロピウス、ヘルマン・オブリスト、アウグスト・エンデルらが設立に関わった。
  • バウハウスの名称は、中世ヨーロッパの建築職人組合「バウヒュッテ」から着想された造語であり、「職人と芸術家の間に傲慢な障壁を取り払い、新しいギルドを作成する」という意志が込められていた。
  • 「バウハウス宣言」の表紙には、ライオネル・ファイニンガーの「社会主義の大聖堂」が使用され、ゴシック様式の尖塔と「建築」「絵画」「彫刻」を象徴する3つの交錯した星が描かれていた。
  • 校章は当初、様々な宗教的・非宗教的なシンボルを組み合わせたものだったが、後に抽象的で整然としたデザインに変更された。
  • 1923年の第1回バウハウス展では、「芸術と工業」をテーマに「技術と芸術の統一」を強調し、展示会では建築、絵画、彫刻の領域が一体となった作品が展示された。




デッサウ

バウハウスの進化に関する情報を要約するとしたら、こうなりますね:

  • 「市立バウハウス・デッサウ」では、教育と生産を工房で分け、工業的な実験と製品開発に重点を置いた。特に、機械工業生産に適した機能主導型の製品を開発しました。
  • ハンネス・マイヤーは、建築を「機能×経済」と定義し、「機能×経済性=バウエン(構築)」と表現しました。規格化と標準化を進め、工業との協力を強化しました。
  • マイヤーは芸術を「秩序にすぎない」と捉え、徹底した論理と機能主義によってバウハウスを再編しようとしました。

この時期のバウハウスでは、芸術と工業の融合が進み、従来の芸術的視点から抜け出して、機能性や経済性を強調する考え方が主流になりました。




ベルリン

バウハウスの展開と終焉に関する情報をまとめてみますね:

  • ミース・ファン・デル・ローエは、私費で工場を借り受け、ベルリンに新しいバウハウス・スクールを設立しました。
  • しかし、バウハウスのモダニズム・スタイルは非ドイツ的であり、「退廃芸術」と批判され、ユダヤ人の「コスモポリタニズム」の影響を受けていると非難されました。1933年、ナチス・ドイツによってバウハウスは閉鎖されました。
  • ミース・ファン・デル・ローエらはアメリカに亡命・移住し、「ニュー・バウハウス」の活動を始め、後に「シカゴ・デザイン学校」「シカゴ・デザイン研究所」「イリノイ工科大学」に統合されました。
  • バウハウスでは、イッテン、クレー、カンディンスキーによる色や形の分析が行われ、色彩や形体を抽象化・理論化することで、モダン・デザインの基礎が確立されました。工業化によって生まれたモノや生産方式、新素材に対するデザイン方式や原理も導き出されました。
  • バウハウスの活動内容は展示会や製品化、出版を通じて公表され、グロピウスとモホイ=ナジによって共同編集された「バウハウス叢書」は有名でした。
  • 図 10. バウハウス・ベルリン資料館 検索結果-
  • 図 11. バウハウス・ベルリン記念プレート 検索結果-
  • 図 12. イリノイ工科大学 検索結果-
  • 図 13. グロピウス&モホイ=ナジ編集『バウハウス叢書』「ワシリー・カンディンスキー」1947、グッゲンハイム・ミュージアム・アーカイヴス 検索結果-


ヴァルター・アドルフ・ゲオルク・グロピウス

ヴァルター・グロピウスは近代建築の中でも重要な存在でしたね。彼の業績を要約するとこうなります:

  • 「ファグス靴工場」は初期のモダニズム建築で、後のバウハウス校舎に影響を与えた建築でした。バウハウスは総合芸術としての建築教育の場でしたが、後にアヴァン・ギャルドな造形教育の場に変わりました。
  • 「ヴァイマール・バウハウス校舎のインテリア」は統一されたモダン・デザインの空間で、記念碑的な存在とされています。
  • 「デッサウの校舎」は、グロピウスの設計によるモダニズム建築の代表作です。バウハウス叢書の一巻とともに世界的に有名になりました。
  • バウハウス閉鎖後、グロピウスはナチスから逃れてイギリスに亡命し、ハーヴァード大学で教鞭をとり、後進の建築家たちを育てました。
  • 戦後は共同設計事務所TACを設立し、超高層ビルなど多くの建築物を手がけました。
  • 1952年には国際建築展に参加し、高層住宅の実現に貢献しました。1960年代にはベルリン南部の大規模な集合住宅地を設計し、グロピウス・シュタットと呼ばれました。


ハンネス・マイヤー

この建築家は非常に多様な経歴を持っているようですね。彼の経歴を整理してみましょう:

  • 建築家、都市計画家、教育者であり、1926年には国際連盟本部プロジェクトを設計し、1928年にCIAM(近代建築国際会議)に参加していました。
  • バウハウスに建築課程を設立し、本格的な建築科を展開しましたが、1931年に共産主義という理由で校長を解雇されました。
  • その後、高等建築土木学院(ヴァシ)からの招待を受け、ソビエト連邦に亡命しました。1935年からは建設学院の東シベリアおよび極東部長、建築アカデミーハウジング建設部長局長などを歴任しました。
  • 1936年頃からはスイスで教育活動を行い、1939年にメキシコシティの国立工科大学都市開発計画の研究所所長に就任しましたが、1941年に政治的理由により辞職しました。
  • その後、1949年にスイスに帰国しました。彼の代表的な実作品としては、ADGB(全ドイツ労働組合総連合の連合学校(ベルナウ・ベイ)、ニジニ・クリンスク、ゴーリキ、ヘブライコミューンのビロビジャーンなどの計画が挙げられます。


ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ

ブルーノ・タウトのキャリアは非常に興味深いですね。彼の経歴の要点を整理してみましょう。

  • 20歳の時にブルーノ・パウルの事務所で働き、その後ペーター・ベーレンスの事務所で建築を学びました。1927年にはドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加し、ベーレンスやグロピウス、ル・コルビュジエらと実験的な集合住宅を建設しました。
  • 1929年のバルセロナ万国博覧会では、ドイツ館をデザインし、そのデザインは鉄とガラス、大理石で構成されたモダニズム空間として知られています。また、バルセロナ・チェアのデザインも彼の手によるもので、モダン・デザインの名作として認知されています。
  • バウハウスにおいて学校組織の再編を進め、建築学校としての性格を強めました。1932年にナチスによってバウハウスが閉鎖され、その後はベルリンで私立研究所として再開を試みましたが、1937年にアメリカに亡命しました。
  • アーマー大学(後のイリノイ工科大学)建築学科の主任教授を務め、1950年から1956年まで同大学のキャンパス計画を担当し、鉄とガラスによる建築デザインを残しました。
  • 代表作例として、ファンズワース邸、トゥーゲントハット邸(ユネスコの世界遺産に登録)、レイクショア・ドライブ・アパートメント、ベルリン国立美術館新ギャラリーなどが挙げられます。また、ニューヨークのシーグラムビルも彼の優れたデザインの超高層ビルとして知られています。
  • 彼の標語 "Less is more." は非常に有名ですが、ポストモダンの建築家であるロバート・ヴェンチューリによって皮肉られたこともあり、"Less is bore."(より少ないことは退屈だ)という表現も存在します。




ニュー・バウハウス

  • ニュー・バウハウスは、モホイ=ナジによって設立されたデザイン教育機関で、バウハウスの流れをくむ。
  • 1937年にシカゴに開校し、元々は「シカゴ芸術産業協会」の招聘に応じて設立された。
  • AAI(シカゴ芸術産業協会)は、産業デザイン学校を設立する目的でモホイ=ナジを招聘した。
  • 学校は財政難と感情的な問題から閉鎖されたが、1939年に「シカゴ・デザイン学校」として再開し、後に「デザイン研究所/シカゴ・デザイン研究所」と改名された。
  • この後者の2つが一般的に「ニュー・バウハウス」と呼ばれることが多い。
  • 校舎は古いナイトクラブの下にあり、後に歴史協会の建物を購入して移転した。
  • 1949年に私立イリノイ工科大学(IIT)に吸収され、1部門(1学部)として現在も存在している。
  • アメリカの「ニュー・バウハウス」は、特にデザインと写真の基礎教育に重点を置き、写真の分野で特に注目された。


モホリ=ナギ(モホイ=ナジ)

本名はラーズロー・ヴェイス

  • モホイ=ナジ・ラーズローは、画家、写真家、タイポグラファー、美術教育家でした。
  • 彼の苗字「ナジ」は、ハンガリー人弁護士からもらったものであり、彼の名前には「モホリ」が加えられました。
  • 第一次世界大戦で負傷し、戦後、法学の学位を取得するつもりでしたが、画家になることを決意しました。
  • 彼は私的な画塾に入り、ロシア構成主義的な芸術表現を学びました。ベルリンやウィーンで活動し、ヴァルター・グロピウスと出会いました。
  • 1922年に写真家のルチア・シュルツと結婚し、写真を新たな芸術表現手段として探求しました。彼の実験的な写真作品「フォトグラム」は有名です。
  • バウハウスで教鞭をとり、写真やタイポグラフィを基礎教育に取り入れ、その教育方針に影響を与えました。
  • 彼の前衛的で実験的な写真作品は、ドイツ新興写真(ノイエ・フォト)の代表的なものとなりました。
  • ハンガリーには彼の名前を冠した国立モホイ=ナジ(モホリ=ナギ)芸術大学があります。彼の芸術活動は美術界に大きな影響を与えました。


ジョルジュ・ケペッシュ

  • ケペシュはハンガリーの印象派画家イストゥヴァン・チョークと社会主義の前衛詩人で画家のラヨス・カシャークから影響を受けました。
  • 1930年にベルリンに移り、出版・展示・舞台美術の分野で活動し、ゲシュタルト心理学者のルドルフ・アルンハイムの映画に関する書籍の表紙を手がけました。
  • 1936年にモホイ・ナジがロンドンにスタジオを移転する際、ケペシュはそのスタジオに参加しました。
  • 1937年から1943年までデザイン研究所でデザイン理論や機能に関連する形式などを担当しました。
  • 1942年にはロシア出身の建築家セルジュ・チェルマイエフからブルックリン大学に招聘され、グラフィック・アーティストらを教えました。
  • 1944年にはデザインとデザイン教育についての書籍『ヴィジョンの言語』を出版し、大学の教科書として広く使用されました。
  • 1947年にMITの建築計画学部から招聘され、ヴィジュアル・デザインのプログラムを開始し、1968年頃には「高度視覚研究センター」へと進化しました。
  • 1974年までMITで教鞭を執り、「高度視覚研究センター」で抽象絵画と先端技術の融合に興味を持ち、学生に影響を与えました。


アーサー・シドニー・シーゲル

  • シーゲルは、1938年までモホイ・ナジとジョージ・ケペシュを支持し、その後はニューヨーク・タイムズのフォト・ジャーナリストとして数十年間活動しました。
  • 第二次世界大戦中は米陸軍航空隊と戦争情報局向けの写真を撮り、戦後はIITデザイン研究所のインストラクターとなりました。後に写真部門の責任者としても活動しましたが、1955年にフォトジャーナリストに転身しました。
  • 1971年にはIITデザイン研究所の学長に就任しました。
  • シーゲルの特徴は、色彩技法の実験的なアプローチで、光の抽象的な使用法を探求しました。特に「バックライトを用いて表面に光を投影する創造的な方法」で光を取り扱いました。


ネイサン・ラーナー

この写真家は、シカゴの視覚文化の歴史を象徴するような作品を撮り、その作品はニューヨーク・タイムズ紙によって「シカゴの視覚文化の歴史に密接に結びついている」と評されました。彼はシカゴ出身の写真家であり、その作品は街を定義するほどの影響を持っています。


ハリー・モーリー・キャラハン

  • ミシガン州デトロイト生まれ。
  • 最初はクライスラーで働きながらミシガン州立大学で工学を学ぶが、後に大学を中退し、再びクライスラーに戻る。
  • カメラ・クラブに加入し、写真を学び始める。
  • 1941年、アンセル・アダムスの講演を聞いて写真に影響を受ける。
  • 1946年、モホイ・ナジからデザイン研究所で写真を教えるよう要請を受ける。
  • 1961年にはロードアイランド・スクール・オブ・デザインで写真プログラムを立ち上げる。
  • 彼の写真技術や教育に関する詳細なメモは残されていないが、妻のエレノアをモデルにした多重露光の作品が多い。


アーロン・シスキンド

  • 彼はニューヨーク・フォト・リーグのメンバーであり、1930年代には「ハーレム・ドキュメント」を含むいくつかの社会的意識の高い画像作品を製作しました。
  • 1950年にブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとっていた際に、ハリー・キャラハンやロバート・ラウシェンバーグと出会いました。その後、キャラハンの説得により、IITデザイン研究所で教員として働き、その後ロードアイランド・スクール・オブ・デザインで教鞭を執りました。
  • シスキンドの作品は、塗装された壁や落書き、アスファルト舗装の修理跡、岩や溶岩の流れ、馬の影、古代彫像、ローマのコンスタンティヌスの凱旋門など、現実世界の主題を素材に使用しています。


石元泰博

要約すると:

  • 戦後にニュー・バウハウスで写真を学びました。
  • サンフランシスコで生まれ、3歳のときに日本の高知県に移り、1939年に高知農業学校を卒業後に再び米国に戻り、カリフォルニア大学農業スクールで農業を学びました。
  • 第二次世界大戦中、日系人強制収容によりコロラド州のアマチ収容所に収容され、写真に興味を持ちました。
  • 1944年に解放され、シカゴに移住しました。ノースウエスタン大学の建築科を経て、「デザイン研究所/シカゴ・デザイン研究所」で写真を学び、1952年に卒業しました。
  • 1953年に再び日本に戻り、日本の伝統建築を調査し、1954年に桂離宮を撮影しました。
  • 1955年に桑沢デザイン研究所の講師となり、1966年に東京造形大学の教授に就任しました。彼の作風は日本的情緒を排除し、迫真力や透徹した凝視力、骨太な造形的把握の逞しさを特徴としています。





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Last-modified: 2024-01-09 (火) 14:14:02